久しぶりに自由学園明日館に出かけた。館内を案内してくれたのは、そこに勤務している武蔵美の卒業生である。一緒に参加したのも卒業生たちで、それぞれ現在の仕事の話と絡めながらのやりとりはとても楽しかった。
フランク・ロイド・ライト設計の中央棟と教室は、1999年から2001年にかけて保存修理が行われ、1921年開校当時の面影がそのまま残っている。建物は重要文化財に指定されているが、動態保存として見学できることが嬉しい。廊下から奥に進むにつれ、空間の雰囲気が異なり楽しませてくれる。天井の高さも一定ではなく、廊下の階段では頭をぶつけそうなくらい低いところもあるが、それがより建物と空間を意識することになる。ホールは天井が高く空間が一気に広がる。もともとは学校の校舎だった建物は、いかにも生徒の学びと生活を意識したものだとわかる。建物や空間、調度品などすべてが対話の対象になる。大きな食堂は天井の照明器具のデザインが独特で、テーブルと整然と並んだ小さな椅子からは、座っている生徒たちの華やいだ声が聴こえてきそうだ。生徒たちとともに、ときを重ねてきた痕跡を留めているからだろう。
自然や周辺環境との調和を重んじた設計思想は、ホールの大きなガラス窓を透して感じ取ることができる。広々とした芝生の奥に見える桜の花はわずかに残る程だったが、小雨の中で幾何学模様の5つのフレームに桜の樹が映し出され溶け込んでくる。
自由学園は、自ら主体的に学び考えることを理念に1921年(大正10)に羽仁もと子、吉一夫妻によって女学校として創立された。19c末、イギリスで起こった教育改革運動がひろがり、20c初頭には、西欧やアメリカで自由で進歩的な教育機関が各地で生まれた。日本でもほぼ同時期に幾つかの学校が開校している。自由学園も大正デモクラシー運動を追い風に、自由教育を掲げて設立した代表的な学校の一つだった。
先月の定例勉強会が、ニューヨーク市にあるBank Street College of Education(バンクストリート教育大学院)の「教育プログラム」がテーマだったこともあり、自由教育についてあらためて考えてみる機会になった。
バンクストリート・スクールも新しい教育を目指した学校の一つで、1916年、教育実験局として発足した。子どもたちの成長に必要な環境と育成について研究し、教育者と研究者を養成することを目的にしている。実践と理論を通して学ぶために子どもの学校を併設し、子どもたちの学びや行動を日々観察し、そこから得たものをプログラムに生かしていく。創造力と批判的な精神を尊重する進歩的な教育機関として、現在は大学院と高校、小中学校、幼稚園を併設し、基本理念は変わることなく受け継がれている。
早くから出版を手がけ、絵本のテキストで知られるマーガレット・ワイズ・ブラウンは、作家を養成する〈Writers Lab〉で学んでいる。〈Writers Lab〉は現役の作家も参加するワークショップで、絵本作家モーリス・センダックも初期のメンバーだった。1980年代初頭には、コンピュータの導入と教育をいち早く採用するなど、革新的であることを心がけ、2023年には、ニューヨークの美術大学プラット・インスティテュートと提携し、デザイン思考と実践を理念にした高校を開設している。日本ではあまり知られていないが、バンクストリート・カレッジは、多様性を重んじ、アメリカの先進的で自由な教育を牽引してきた教育機関の一つだ。
バンクストリートの創立者、ルーシー・スプレイグ・ミッチェルと夫のウェズリー・ミッチェルは、ジョン・デューイの影響を受けていたというが、当時はフランツ・チゼックやルドルフ・シュタイナー、マリア・モンテッソリーらの考え方が広く取り入れられていた。他には、アメリカ・マサチューセッツ州のダルトン小学校で実施されたダルトン・プランと呼ばれた教育指導法があり、日本では東京府立第5中学校、成城小学校が導入していた。歴史的には、自由で進歩的な教育は早くから日本にも根づいていたことになるが、第二次世界大戦と紆余曲折を経て、現在は幾つかの私立学校で受け継がれているだけである。
私はたまたまだけれど、戦後の新しい教育が公立小学校で実践されていたありさまを体験している。小学校1年から3年にかけてのことだ。使用していた教科書も違っていた。12年ほど前に偶然出会った開成中学・高校の元教員だった前沢明さんを通して知ることになった。
国語の教科書には、絵が中心でほとんど文章が入っていないところが何ページもある。描かれているのは学校や家庭で過ごす子どもたちの情景である。戦後国語教科書の編纂に携わった前沢さんは、絵から言葉を引き出し、「話す」「聞く」ための言語活動が展開できるように、絵を中心にする編集意図があったのだという。身近にあるさまざまな「もの」や「こと」「人」が絵を見ながら関係づけられて言葉になっていく。国語には、絵を読むこと、情動も言語教育として含まれていた。1951年度版(昭和26)『あたらしいこくご 1年』東京書籍には、監修者に柳田国男の名前もある。学校図書発行の『1年生のこくご』は志賀直哉が監修している。
このような教科書の使用は長くは続かなかったそうだが、私はたまたまその時代に立ち会っていたことになる。担任の先生に恵まれたこともあるが、とても熱心で授業以外でもいろいろなことを教わった。このとき受けた教育と学校での生活がいつまでも印象に残り、ことあるごとに記憶として蘇る。これまでを振り返ると、そのころ体験した同じような手法を、自らも実践してきたように思う。どれほど触発され、その後の生き方に強い影響を与えたか、ということだろう。
自由教育は世界大戦の影響もあり苦難の時期もあったが、敗戦後、理想を掲げ、かつて花開いた新教育を根づかせようとする積極的な動きがあった。私が小学校で出会った先生たちもそうだったのだろう。前沢さんによれば、教師は奈良女子師範学校か明石女子師範学校を卒業していたのではないか、ということだった。子どもの自主性を尊重し、観察教育や経験教育が重視された。遊びと学び、家庭で過ごす時間が連続して繋がっていたように思う。後に分かったことだが、このような教育がしっかり行われていたのはこの時期を含め数年間だったようだ。
私は小学校3年の3学期に転校したが、授業の内容や学校生活があまりにも違うことに戸惑い、しばらく馴染めなかった。新しい学校での3年ほどは、放課後はほとんど野球かソフトボールに明け暮れ、友だちのことは憶えていても、先生のことも授業のことも思い出すことがない。中学校での3年間もそうだった。
出会った先生の違いはあるかもしれないが、小学校教育の変わり目だったことも一因だったようだ。私が小学校3年くらいまでは、教育課程を生かし、どう指導するかは教師の裁量に任されていたが、1955(昭和30)年ころから、文部省の指導が強化されていった。指導のための手引書であり試案だった『小学校学習指導要領』は、文部省が提示する拘束力を持った基準に変わっていった。1955年、『小学校学習指導要領』に「試案」は明記されなくなり、改定を重ね、小学校は1961年、中学校は1962年全面改定された。国の意向に添った知識教育が基本的な方向性として定着していった。
私は、変わり目の前後を経験したことで、どうしても観察と体験を重視した教育に関心が向いていく。その後の進路もそこを意識していたわけではないが、結果的に教育の分野に携わり、子どものためのワークショップなどを行ってきたのも無関係ではないのだろう。
前沢さんとの出会いは不思議な縁だったが、その後私の妻の祖父、立石仙六がダルトン・プランの実践者だったことを知った。福岡の小学校の校長を務め、一時東京高等師範学校付属小学校でも教えていた。『尋常小学二部教授要義』(樋口長市、立石仙六、村野幸次郎著)、『自修法並にこれと関連せる教授法』(樋口長市、立石仙六著)、「小学校における自修法と教授」『教育研究』49号などの著作があり、手もとには、『実験国民新遊戯』(江頭尚令、立石仙六著)1902年(明治35)がある。縁とは不思議なものだと思う。
明日館にときどき出かけることができるのも縁だろう。豊かな文化を形成していくためには、自主性と創造性を育てるための教育の充実が基本だろう。特に幼児期から青年期までの教育環境が及ぼす影響は大きい。最近のさまざまな国内外の動きから、子どもにとって必要な環境は、周りが整えていかなければ壊れる、とつくづく感じる。
なお、私の小学校低学年のころの学校生活は、〈18−見つけだすこと、感じとること〉として掲載している。imaiyimp.jp/2022/01/17/attimes18/