挨拶は小さな声で、友だちとも距離を空ける。映像で流れる小学校の授業風景を見ていると切なくなる。とりわけコロナ禍で入学した子どもたちにとって、学校生活がどのようなものかいまだに手探りのままだ。小学校低学年は、いろいろ学ぶことも多いだけに心が痛む。
思い返すと、私が小学校低学年のころは学校での生活も遊びも目一杯楽しんでいた。学校は特別の空間であり、周辺の空き地や丘、池、友だちの家、すべての場所が繋がっていた。それほど掛け替えのない時期だった。このころの記憶も鮮明に蘇る。
入学したばかりの1年生のとき「朝の観察日記」をつけることが日課だった。通学時に何か一つ観察し簡単な絵と文を提出しなければならない。最初は20分早く家を出ることが辛かったし、題材を選ぶことも大変だった。ところが少しずつ見つける楽しさに変わっていったことを覚えている。
最初は道端を歩きながら草花や虫を描くことが多かった。規則正しい葉脈をきれいだと思い、日向に出てきたミミズを日陰に戻すこともあった。
目を注ぐ位置が少しずつ高くなり、家の窓や屋根瓦、空へと関心を向けるものが広がっていった。鬼瓦にもいろいろな顔ががあり、屋根の上に背の高い草が生えているところもある。気になるものが幾つも目に付くようになった。植物は日々生長し、虫も天候によって動きが違う。雨が降った翌日は建物の色も変わる。
2年生になると自然観察をクラス全員で分担した。百葉箱係、雲や風向き、植物や動物観察係などに分かれ、毎日1枚にまとめた。
私は天気係で、その日の天気と雲の種類、雲量を任された。小学校2年生で新聞の天気図が読め、雲の名前もほとんど分かっていた。今考えれば不思議な気がするが、身体で感じとること、学び、知識、遊びが一体になっていたように思う。
観察を通した学びが基本にあり、体験すること、体感することによって主体的に学ぶことができた。
後に分かったことだが、観察教育がしっかり行われていたのはこの時期を含め数年間だった。担任の先生にも恵まれた。1、2年生のときは楠本菊子先生、3年生は木本裕子先生、とても熱心で授業以外でもいろいろなことを教わった。小学校、中学校で先生の名前を覚えているのはこの二人だけだ。
敗戦直後、新しい教育を根づかせようと積極的だった先生たちがいたが、二人の先生もそうだったのだろう。
使われていた教科書も違っていたようで、当時の国語の教科書(1950年〜52年発行)に触れる機会がたまたまあった。2014年12月、「文字のない絵本」に関する講座の折り、前沢明さんが声をかけてくださり見せていただいた。
絵が中心で文章が入っていないところが何ページもある。描かれているのは学校や家庭で過ごす子どもたちの情景である。
戦後国語教科書の編纂に携わった前沢さんは、絵から言葉を引き出し、「話す」「聞く」ための言語活動が展開できるように、絵を中心にする編集意図があったのだという。教科書のことは忘れていたが、実物を見ることで記憶が蘇り、観察記録をまとめるときも、頻繁に話し合っていたことを思い出す。身近にあるさまざまな「もの」や「こと」「人」が絵を見ながら関係づけられて言葉になっていく。国語には、絵を読むこと、情動も言語教育として含まれていた。
昭和26年度版『あたらしいこくご 1年』東京書籍には、監修者に柳田国男の名前もある。学校図書発行の『1年生のこくご』は志賀直哉が監修している。
このような教科書の使用は長くは続かなかったそうだが、私はたまたまその時代に立ち会っていたことになる。
この時期の記憶が事あるごとに蘇るのは、教育、研究に携わった者として、また生きる上でも原点になっていると自覚しているからである。
両親の影響も大きかった。父は頻繁に外に連れ出してくれたし、小さいころから本を買い与えてくれた。野球に明け暮れたのも父の影響だった。
母は教育に熱心ではあったが勉強を強いることはなかった。小学校3年生のとき、玉川学園の小原国芳さんの講演を聞いたのがきっかけで、『小原国芳全集』を購入し、以来しばらくは「全人教育」が母の口癖だった。
それが根拠になっていたかどうかは分からないが、刺繍から編み物、洋裁、お菓子づくりなど何でも手伝わされた。おそらく好奇心もあったのだろう、妹が二人いるが一番手伝っていたように思う。休みの日になると家族で合唱を楽しんでいた。
子どもにとって掛け替えのない時期がある。身の回りのものを観察し、身体全体で感じとることによって、生きた言葉も使える。絵を読んだり、絵を描いたりするときにも背景には豊かな言葉がある。
コロナ禍で人と触れることができないもどかしさはあっても、触れることができるものはたくさんあるし、伝え合うことはできる。