4-伝わる、伝わらない

人と接する機会が減り、あらためて人と人との繋がり、コミュニケーションについて考えさせられる。伝えられる情報は、ほとんどがメディアを通してである。親しい人たちとの雑談が、いかに多様な環境の中で情報や思考を関係づけ、社会生活を支えているかを思い知る。
人に何かを伝えるといことは、伝えたいことを相手に理解してもらうことであり、言葉を伝えることが目的ではない。伝える側の意図が伝わらなければコミュニケーションは成り立たない。当然相手がいることであり、対象は1人もあれば大勢のこともある。
対面の1対1なら、相手の表情や声の調子から心の動きを想像することができる。親子や友人ならなおさらそうであり、お互いの想像力-相手の気持ちを推し測り、想いやることによって対話を重ね心の絆を確かめていく。そこにはお互いに理解し合おうとする力が働くからだ。ところが対象が多数になると、この力が弱まってしまう。ましてや伝える対象が不特定多数になればなおさらだろう。さらに、コミュニケーションの形式や手段、環境が異なれば、意図や目的がズレることもあり、その場で生じる作用も変容する。
コミュニケーション環境が多様なのは今に始まったことではない。メディアなどを媒介したコミュニケーションは古くからある。それぞれの特性を見極め活用してきた。リモート・ミーティングに違和感を感じる、との声はよく聞くし私もそう思う。だからといって、対面でなければダメということもない。対面による会話と比べれば想像力の働かせ方が違う。まだ慣れ親しめないということだろう。大切なのは、その場で双方が理解し合うこと、共通に認識すべきことが何かを明確にしていくことだろう。
自分の感覚と相手の感覚は同じではないし、共有している情報や知識も同じとは限らない。人が物事を判断する基準は一つではない。伝える方にも伝えられる方にもそれぞれの物差しがある。共通の言語を使っている安心感から相手に対する配慮が欠けることもある。
私たちは、言葉で聞くことでも知識や記憶を総動員して想像しながら対応している。しゃべり言葉には、感情や気配、音の抑揚が含まれている。男性の声、女性の声、声の大小、高低でも印象は異なる。さらに、その場の空間も重要な役割を果たしている。
歴史を遡れば、人が認識できる世界はごく限られた周辺から始まった。未知なるものや異国のことは、言葉による語りや素朴な絵によって伝搬してきた。そして、想像力と探求心がメディアを開発し発展させてきた。今日では、さまざまな知識と情報を誰もが共有できる環境を享受している。
しかしながら、道具が増えても人体の本質的な機能は変わっていない。私たちは、共通の言語によってコミュニケーションがとれるのは限られていることを知る必要がある。1対1の対話であれ、多数に向けたメッセージであれ、これはコミュニケーション全てについていえることだ。コミュニケーションの環境は様々でも、そこで求められる根源的なことは変わらない。
「伝わらないメッセージ」「伝わらない広告」「理解しづらいマニュアル」はいつの時代にも存在する。
そこに欠如しているのは、伝える側の対象を意識した想像力だろう。どのように読まれるか、どのように受けとめられるか、そこで生じる作用を想像するか否かである。

いま、あらためて絵本に心を寄せるのは、想像することの愉しみを強く感じるからだ。絵本は、読み手を意識し想像力を働かせなければ成り立たない。言葉は共通の概念を語り伝えてくれるが、絵は必ずしもそうではない。作家の想像と読み手の想像がピッタリ重なることもない。それでも、幾つも小さな入り口のような接点があり、想像することの愉しみを用意してくれている。作家の読み手に対する強い想いと想像力があるからだろう。