28-デイビッド・ホックニーの眼

東京都現代美術館で開催されている「デイビッド・ホックニー展」をやっと観ることができた。もっと早く出かけたかったのだが、会期中に鑑賞することができて本当に良かったと思っている。ちょうどホックニーの写真を話題にしていたこともあり、9台のカメラを用いた実験的な映像が気になった。

 「四季、ウォルゲートの木々」と題する作品は、2010年夏、秋、冬、2011年春の4部で構成されている。

 ジープに9台のカメラを取り付け、時速5マイル(8キロ)で1時間ほど移動し撮影したそうだ。映像は、カメラごとに9分割されたものが投影されている。元は55インチのモニター36台に映し出されたものらしい。9つの視点を統合した風景は、ずっと観ていても違和感がない。むしろ車を運転しているときに見る風景に近似している。近似といったのは、カメラの眼と人の眼は根本的に異なるからだが、人は運転しているとき一点を固定して見ているわけではない。正面、左右、上下、頭と眼球をわずかに動かしながら前方を確認している。移動しながら全体の風景として捉えているのは、神経系、心の操作によって繋がりのある像としてまとめているからにほかならない。

 ちょうど数日前の勉強会で、ホックニーのフォト・コラージュをもとに、人間が連続的な空間を認識する眼について話したばかりだった。1982年のフォト・コラージュから30年ほど後に制作された映像作品は、明らかにこの延長線上にある。「視ること」「視たこと」「表すこと」を徹底して突き詰めてきたホックニーらしい実験的な作品だろう。

 「人は何を見るか、どの順番で見るか、ということをその都度選択している」とホックニーが言うように、人が視る眼は眼球の動きと身体行為を伴っている。決して静止した状態ではない。部屋の中を眺めるときでも、時間の経過の中でバラバラな対象を認識しながらまとまりのある光景として視ている。

 テーブルや椅子、座っている人、窓の外の風景など、その都度無意識に個別のものに焦点を合わせていて、すべてに焦点が合っているわけではない。むしろ自在に眼差しを向けた対象にフォーカスしている。

 『時間と空間の誕生』を著したゲーザ・サモンによれば、人の網膜上の像は対象の方向や見かけの大きさに関する情報しか持たず、距離に関する情報は含まれていないのだという。

 基本的には平面的な二次元の像を両方の目で見ることによって、三次元的な空間として把握する。それは環境に適応し、認識するための神経系、いわゆる心の働きで、サモンは「視覚上の手がかり」によるものだとしている。

 デッサンを描く際には、正確に輪郭をとるために一方の眼を閉じて棒状のもので距離と大きさを測る。その時両方の目を開けると、棒状のものは2本になりダブって見える。左の目と右の目の網膜上の像がそのまま同時に認識されるからだ。目のしくみを理解するうえでわかりやすい。

 カメラ・オブスクラ(暗箱)の発見は、外界の三次元空間を合理的なシステムとして二次元の平面に再現することを可能にした。その結果、単視点による線遠近法はルネッサンス以降の絵画に大きな影響を及ぼした。しかし、線遠近法は一つの手法であり、技術でしかない。人間が連続的な空間を認識する眼、眼球運動、身体知覚とは異なるシステムだ。

 20世紀初頭、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックの視知覚に対する根本的な疑問がキュビスムを生み、ホックニーもまた、人が対象を視ることの意味と、視たことを表現することについて探求し続けた。

 ホックニーは自分の頭の動きに合わせてカメラのシャッターを押し、撮影した複数の写真をコラージュした作品を1982年に発表している。当然のこととして、画像は微妙に重なり合う。部屋の中の家具や調度品よりも、さらに人の頭や身体が二重三重に重なる。写真画像は視点が移動するたびに断片化されるが、視たいところに目を向けながら、全体として認識しようとする行為はむしろ人の視知覚に近い。

 構成された画面は人が実際に見ている光景ではないが、視ることの実体を提示する。あえて単視点のカメラの眼による「視覚上の構成」と、人が視る「視覚上の手がかり」を組み合わせ、対象との関係と視ることの意味を鑑賞者に問いかける。

 私たちが常日ごろ触れている雑誌の写真、テレビの映像、映画など、いずれも単視点のカメラの眼によるイメージだ。情報として受けとめるイメージの多くを占めている。先入見や先入観、イメージすることも機械の眼が基準になってしまうことも少なくない。

 映像作品「四季、ウォルゲートの木々」では、時間を伴った動的な空間としてあらためて視ること、感じとることの意味を問いかけている。視て、感じとり、認識することの手がかりは何に基づいているのか、と。

 「9台の液晶ディスプレイを用いるということは、見るものにこの選択を再び委ねることであり、つまりは新しい物語の可能性を切り開くことだと私は思っている。1台のカメラではますます難しくなってきている壮大さの表現を、今一度映像に求めることができるのかもしれない」と展覧会図録の中で語っている。この飽くなき探求に驚かされるが、映像とこのことばを結びつけたとき、ワクワクしながら新たな作品を想像してしまう。

 最近のiPadによるドローイングもその一つだろう。多視点であることを感じさせることなく、視たまま、記憶していることをそのまま手の動きを手がかりに描いているように思う。

 高さ1メートル、長さ90メートルに及ぶ「ノルマンディーの12か月」では、鑑賞者もまた視点を大きく移動させながら観ることになる。鑑賞者の身体と目線を意識した相互的な関係もホックニーの作品の特徴だろう。90メートルの作品を観るにはそれなりの時間がかかる。時間の経過の中で、鑑賞者にも物語をつくり出すことを委ねているのだろう。

 「画家というものは、手と眼と心を使わなくてはならない。このうちのふたつではだめなんだ。レンブラントは必ず3つすべてを使って描いている」、これも図録の中のホックニーのことばである。