私が絵本に興味を持ったのは、絵本はことばとイラストレーションが織りなす重層的な空間であることだ。複数のページがもたらす独特の時間と空間の表現に惹かれる。次の画面があることを前提にした構成と展開は、一枚の絵と異なり一冊全体で構想される。テキストだけを読んでも、イラストレーションだけを見てもすべては伝わってこない。この両者の相関性こそが大きな特徴になっている。
絵本と関わるようになったきっかけは、武蔵美の図書館で絵本を重点的に収集することになり、その収集を手伝ったことからだ。世界中から集められた3,000冊におよぶ絵本に目を通すことからはじまった。日本橋丸善の「世界の絵本展」のために集められた絵本だ。店頭に出る前に、数日かけて段ボール箱を一つずつ開けていった。毎年その中から収集する絵本を選んでいった。1973年ころから10年以上続いた。徐々にその数は減っていったが、最初の3年間は200冊ほど選んでいた。
膨大な量の絵本に短期間で触れたことで、国ごとの表現の違いや絵本独自の表現特性もおぼろげながら見えるようになった。表現の多様さと多彩さに毎年驚かされ、それまで絵本に抱いていた印象を根底から覆された。
美術大学で収集する以上、イラストレーションとエディトリアル・デザインに注目する。印象的だったのは、イラストレーションがさまざまな技法や手法で描かれていたことと、分野の広さだった。ABC Bookや知識絵本と呼ばれるものも、表現方法、編集の仕方が工夫され、タイポグラフィーとブック・デザインの優れたものが多い。
後に知ることになるが、イラストレーションには、植物画や構造図などノンフィクションの分野が明確にあり、ヨーロッパでは教育の上でも専門性が確立している。中世以来の博物画の伝統が受け継がれている。イラストレーションは、アートとしてのイラストレーションからノンフィクションまで、かなり幅を持っている。教育機関でもそのように扱われ、専門も扱うメディアも違っている。自然科学だけでなく、歴史画も掲載する書籍によって、イラストレーションはノンフィクションとして位置づけられる。
収集から10年ほど経ってわかったこともある。10年、20数年にわたって版を重ね、読み継がれる絵本がある一方で、1〜2年で消えていく絵本も相当数あったことだ。80年代の前半にその傾向は顕著だった。
いかにも奇をてらったイラストレーションが特徴で、「コールデコット賞」などを意識してのことだろう。このようなものまで、と思うような用具や画材が使われているものもある。いかに人と違うものを描くか、目立つかが優先している。絵本全体から伝わってくる表現の魅力を感じない。一冊の本であっても、時間と空間の繋がりがなく、単に個別の絵が複数あるだけである。テキストとの相関的な関係も乏しい。絵本が注目されるようになり、にわかに絵本のイラストレーターが増えたことも一因だったようだ。
このような体験は、絵本のためのイラストレーションについて考える契機になった。絵本の絵は絵画なのか、イラストレーションなのか、という議論もあるが、対立させてみてもあまり意味がない。絵本の原画を一つ一つ取りあげれば絵画だろう。しかし、印刷された絵本に見出すものは、イラストレーションとして見るのが自然のように思う。まず機能がはっきりしている。欧米では、明確にイラストレーションと位置づけている。
絵本のイラストレーションは、情報とイメージを視覚的に表現するものであり、伝えたい対象、伝えたいことがはっきりしていることが多い。さらにいえば、絵本は作家、編集者、デザイナー、出版者などによって、共同でつくられることも特徴だろう。単純に作家個人の表現とは言い切れないところもある。
そして、受容者である読者がより意識されていること、ある意味で受容者も共同で物語をつくり出せる環境の中にいる。両者の関係は絵本に限ったことではないが、絵本の場合は意識的であれ、無意識的であれ際立っているように思える。
絵本は特異な表現分野だと思う。100年以上にわたって基本的な構造や修辞法があまり変わってこなかった。おそらくは、絵本の表現に内在する普遍的な価値が踏襲されてきたからだろう。
普遍的な価値といっても難しいが、ことばとイラストレーションで構成されていること、作家と受容者との相互作用が関係していることと無縁ではないはずだ。絵本と関わるようになって、ずっと気になってきたことだ。
ことばとイラストレーションが結びつくことによって、生まれる意味、引き出されるイメージや感情は、文学のようにテキストを読み理解することと、一枚の絵を理解することとは異なる。お互いが響き合う相乗効果の中で生まれる。
絵本は、書物との関係、複製技術−印刷がなければ生まれなかっただろう。絵本のイラストレーションは、木版や銅版、石版など印刷技術とその表現特性に合わせて発展してきたが、活版印刷の普及によって、独自のメディアとして発達した。
絵本は、当初からことばとイラストレーションで構成することを前提に、表現方法の探求が行われた。
初期の物語は、神話や寓話、民話など、口誦で伝えられたものが伝承文学に発展し、現代に引き継がれてきたものも多い。伝承文学は、作者が描いたイメージの文字による言語化であり、おのずと口承による神話や寓話、民話とは異なる。
紀元前6世紀の「イソップ寓話」の題材を口承の形でそのまま再現することは難しくても、文学としての「イソップ寓話」が同じでないことは想像できる。口承による物語は再編集され文字情報に置き換わっている。
話しことばと書きことばは異なるものであり、伝え方も、受けとめ方も同じではない。話しことばには音とともに表情や身振りなど身体的行為を伴う。さらに、語りにはその場のやり取りがあり、相手に反応し変化する。一人であれ多数であれ、相互的な関係を前提にしている。マーシャル・マクルーハンやウオルター・オングが指摘したことだ。
オングは、文字を書いたり印刷することを知らない文化を「一次的な声の文化」とよび、電話、ラジオ、映画、テレビなどの電子メディアを「二次的な声の文化」とした。厳密な意味での「一次的な声の文化」はほとんど存在しない、とする一方で、「多くの文化やサブカルチャーが、高度技術文明につかりながらも、程度の差はあれ一次的な声の文化の思考様式を相当に保っている」ともいっている。
活版印刷技術は、抽象的な思考と知識の継続的な蓄積を可能にし、社会と文化を変えていった。イラストレーションもまた書物と結びつき、反復可能なイメージを提供していく。
初期の伝承文学がなぜイラストレーションを求めたのか、ことば−印刷されたテキストと切り離して考えることはできない。
イラストレーションは、当初物語の補足や説明、いわゆる挿絵として扱われたが、イメージをテキストで表しきれない限界に気づいていたはずだ 。視覚化された文字は、口承文芸が持つ身体を伴う音声、身振り、感情などを表すことが難しい。
文学がイメージの文字による言語化であるのと同じように、イラストレーションは、作者が想い描いたイメージを視覚言語化したものだ。表す方法も技術も異なる。徐々に補足的なものから独自の表現を獲得していったことも自然な成り行きだっただろう。
絵本では、テキストはイラストレーションを、イラストレーションはテキストを意識しながら、それぞれの表現特性を活かそうとしてもおかしくない。イメージは、ことばとイラストレーション、それぞれに隣接している。
現代の絵本に口承文芸特有の様式が見られるのも珍しいことではない。韻を踏んだことばの表現は古くから受け継がれている。絵本の読み合いや読み聞かせが、今なお盛んに行われることも興味深いことだ。口承の名残と考えてみると面白い。ここではイラストレーションを視ることとセットになっている。
読まれる「場」が絶えず意識されてきたのは、受容者との相互作用を大切にしてきたからだろう。
絵本の基本的な構造や修辞法があまり変わってこなかった背景には、読まれる「場」とそこで生じる「こと」が深く関わっているように思えてならない。
ことばとイラストレーションの関係も、変化や進化というよりは、絶えず組み立て直しながらその時代性や文化に応え、新しい形を求めてきたように思う。
9月から勉強会がはじまる。絵本の表現に内在する普遍的な価値を異なった観点からも探っていければと思う。