38 コラージュ、イメージの引き出し-2

コラージュに取り組むようになって5年が過ぎた。当初は気軽な気持ちではじめたが、ここ1、2年は本気度が増し、力の入れ方が変わってきたように思う。

 At Times折々に13で「コラージュ、イメージの引き出し」を書いたのが、2021年5月、このときは、つくること、そのものに愉しみを感じていた。20センチ四方の小品が中心で、撮りだめていた植物の素材をメインにコラージュしていた。少しずつ変わっていったのは、かつて訪れた都市の写真を素材として使うようになってからだ。ニューヨークとシカゴの写真は、リバーサル・フィルムを含めかなり残っている。シカゴの写真を加工し、つくりはじめたときだった。街全体の光景よりも特徴的な構造物と、そこに付随したものやことが鮮明なイメージや記憶として現れる。訪れた痕跡を留めておくために、とりあえず撮っていた写真だったが、時を経ると思いがけない見え方、見方がある。もともとプライベートなアルバムのために写真を撮る習慣がなく、旅行のときの写真も家族のスナップもあまり残っていない。家族からは散々非難されてきた。今更後悔しても仕方がないが、その時々を留めた写真の効用を今になって感じている。写真から何を感じとるのかは、人それぞれ違うし、求めるものや環境、時期によっても異なる。もっと家族の記録として写真を残しておくべきだったと申し訳なく思っている。

 シカゴにはじまった街のコラージュは、ニューヨーク、ワルシャワ、ミラノに繋がり、パリ、シテ島のサント・シャペル、プラハのキュビズム・ミュージアムの螺線階段、さらにここ最近は、立川の商店街や所沢駅近くにあった西武鉄道の旧車両工場と身近な場所にも広がっている。

 シカゴは3回訪れただけだが、ダウンタウンのビルの合間を縫って走る高架鉄道、通称シカゴ・Lは、強烈な印象を与える。19c後半に建設された高架は、当時のまま鉄骨やボルトがむき出しで、観ているだけで飽きない。高架下を行き交う車や人の波、いま感じとっていることを大切にしたいとの思いが、積極的な写真撮影に繋がらず、その後写真も整理されずに眠ったままになっていた。

 コラージュのために写真を取り出すと、それぞれが繋がっていく。シカゴには建築鑑賞ツアーがあるほど、19c後半から20c初頭にかけての建築物がたくさん残っている。建物の外壁には鉄製の非常階段が随所にあり、そんな写真も何枚かある。最後に訪れてから20年以上経つが、印象的だった光景は脳裏にさっと浮かんでくる。

 写真だけを見ていると風景が中心だったが、コラージュのために写真を加工し、組み合わせはじめると、当時のさまざまな出来事が重なるように浮かんでくる。訪れた大学や美術館、いつも利用していた中華料理店と牛肉のオレンジソース煮、シカゴ現代美術館のギャラリーショップで購入した腕時計などなど。

 記憶の想起には何らかの手がかりが必要だが、私にとって、コラージュは格好の手法だったようだ。写真アルバムも、順番や配置、簡単なコメントを加えることによって活かされる。まさに「繋ぐ」「編集」することが欠かせないのだと思い知る。あらためて、古い写真アルバムを眺めてみると、数冊でもコメントが入り編集されたものからは、思い出せることがたくさんある。並べただけでは、料理する前の材料を並べているのと変わらない。いまからでも写真にコメントをつけていくこともできるが、コラージュは、経過した時間を超えて自在に繋ぎ、関係づけることができる点で私には向いている。

 今年に入ってから、やや大判の大阪の街を題材にした作品を2点つくった。これまでと違い素材にした写真は私が撮ったものではないが、新たな組み立て方を愉しめた。1枚は通天閣とその周辺の商店街、もう1枚は1930年に竣工した大阪市北浜にある生駒ビル。きっかけは、息子からの希望だった。立川のコラージュを気に入り、大阪の街のコラージュを見たいということになった。1年半ほどになる大阪暮らしが気に入っているようで、部屋に飾りたいという。二つ返事で引き受けたら、170枚ほどの写真が送られてきた。息子が一緒に仕事をしている新田桂一さんの写真だった。新田さんは、ファッションや広告を中心に活躍している写真家だ。

 私は18歳まで大阪で過ごしたが、実家は郊外だったために、通天閣や北浜周辺のイメージは高校生のころに持っていた印象が強く残っている。その後さまざまな情報が綯い交ぜになり、いつの間にか大阪の街に対するイメージは、何となく曖昧に形成されていた。

 170枚ほどの写真は、さまざまな場所やものに焦点が合わされ、今の大阪を見せてくれる。捉える視点も映し出されるものも、記憶の中の大阪と同じではないが、そこに懐かしさを覚える。店の佇まいも、ずっとある看板も微妙に違っていても、半世紀以上変わってこなかったように思えてしまう。

 コラージュを通して、あらためて私の中にあった〈大阪〉と向き合うことができた。これまで抱いてきた大阪の街のイメージは、ふるいにかけられ、曖昧なものは消え自身と結べるものが残っていく。面白い感覚だった。これまでは自ら撮影したものを通して記憶を辿っていたが、異なった入口から辿り、繋げていく世界も新鮮だった。もう何点かつくってみようと思う。

At Times折々に13–コラージュ、イメージの引き出し 2021年5月