13−コラージュ、イメージの引き出し

最近コラージュにはまっている。これもコロナ禍の影響かもしれないが、つくることが愉しい。つくづく手を動かすことが好きなのだと実感している。
 といっても印刷物などを貼り付けるのではなく、パソコンのモニター上で作業する。アプリケーション・ソフトを使い、数枚のレイヤーを重ねていく。重ねる順番や大きさ、配置を自在に変えることができる。空間に縛られることのない自由度がとてもいい。
 最終的な仕上がりは一切考慮しない。スケッチもなければ、事前の計画も立てない。頭に浮かぶことを形にしていく。
 最初に画面の大きさと使う1枚目を決めれば、あとはその都度ストックしておいた素材の中から取出し配置していく。選択し決定していくプロセスも大切にしている。蓄えられたイメージにアクセスすることによって、かつて感じたことが蘇えってくるからだ。そして、取り出したものは新たなイメージを引き出してくれる。
 思い浮かべたことを形に重ね、イメージを膨らませていく、この感覚とそこで起こる連鎖と循環がおもしろい。
 制作に要する時間はさほど長くはなく、ほぼ1日で完成する。時間がかかるのは素材づくりで、1つつくるのに1日かかることもある。主要なものは写真を加工してつくるが、コントラストを変えたり、色を変換したりする。細かな切り抜きを行えば、結構時間もかかるし神経も使う。けれども、無心でマウスを動かす作業も苦にならないから不思議だ。
 フォルダーにはさまざまなものが含まれている。古いものでは、学生のころ撮影した街の風景や植物などもあり、ウオーキングの途中、撮りだめた風景や草木を加工したものもある。最近使用したものには、ミラノのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアやプラハにあるキュビズム・ミュージアムの螺旋階段もある。
 写真からはかつての記憶と場所が蘇る。ストックした素材は記憶の断片であり、イメージの引き出しでもある。漫然とアルバムを見るのとは異なる光景が浮かんでくる。
 モニターを見ながら想像する空間は、脈絡なく広がっていく。想像が形を動かし、幾重にも重なり合い異なった時間と空間を繋いでいく。ときには、欲しい素材のために一旦中断し撮影からはじめることもある。作業すること、そのことを愉しむ、この手法がすっかり気に入っている。
 もっとも、十分な素材がなければコラージュもはじまらない。ジェリー・N・ユルズマンのフォトモンタージュやエリック・カールの多彩な色紙のコラージュも、豊富なイメージの引き出しがあったからこそだろう。

Macを使うようになって30年ほどになるが、こんな形で好きなように作品をつくったのははじめてのことだ。そんなゆとりなどなかったということもあるが、もっと早くから、と思うと残念でもある。
 Mac ⅡCiを仕事のために購入したのは1992年、メモリー9MB、ハードディスク210MB、いまでは考えられない性能だが、その時の感動は忘れない。
 ある程度使えるようになって感じたのは、そこで生じる人間的な温もりのような感覚だった。動的で自由に対話する感覚である。
 それまでのデザインは設計や計画であって、印刷前の校正刷りを見るまで完成形は見えない。デザインすることは、あくまでも最終形態を想定した下絵のようなものでしかなかった。ところが、パソコンを使うとほぼ完成形に近い形を見ながら作業を進めることができる。考えていることとデザイン行為を、一体的なものとして捉えることができた。インタラクティブ、インターフェイスといった言葉が使われるようになったのもこのころである。
 以来、パソコンはリアルタイムで想像を促す思考のための道具だと思っている。コラージュは、Macを使いはじめたころのそんな新鮮な感覚を思い出させてくれた。
 私にとってコラージュは表現の原点でもある。卒業制作は、シルクスクリーンで刷り重ねた作品だった。素材づくりのために新宿や池袋駅周辺の路地を早朝から歩いていた。いま、出かけてみたいところがたくさんあるのだが。