45-グラフィックアート複製技術とコミュニケーション

スマートフォンやタブレット端末は、身近な表現手段としてだれもが使っている。いまでは版画も構想過程でパソコンを使用することも珍しくない。制作環境はずいぶん変わった。版画かグラフィックアートかといったことよりも、時代に応じた表現として、社会と繋がるメディアとして変化していくのは当然のように思う。スマートフォンやタブレット端末を通して見る世界も日常であり現実だ。映像や音楽、小説、マンガなどを、受容者はすべての感覚を通して受けとめている。本来は自然なことだけれども、視覚表現の領域ではいまだにそれぞれ専門の分野ごとに語られることが多い。表現とはもともと複合的なものであり、表現者と受容者との相互の関係の中でで成り立っている。

 歴史的に遡れば、イメージによるコミュニケーションは、絵や記号に合わせて語りや身振り、音を伴っていた。小さな集団から社会に広がっていく過程で、技術の発展と社会制度や文化、宗教などの違いから専門化され分離していった。ことばや絵に対する関わり方も、時代と環境によって異なる。イラストレーションやグラフィックアートは、古くから存在する表現形態であっても、時代とともに変容し新たな意味を帯びていく。書物や絵本は、印刷され製本することによって成り立っているが、掲載されるイラストレーションについては、印刷によって生じる表現であることが強く意識されることはあまりない。特に現代のイラストレーションではまず原画ありきで、細部や色彩の正確な複製、再現を整版と印刷技術に求めることが一般的になっている。カラー写真製版技術の進化がそうしてきた面もあるが、たとえ高精細の複製物として再現しても、絵の具で描かれた原画と印刷物は組成がまったく異なるものだ。

 書物や絵本、新聞の形式は150年以上経てもほとんど変わっていないが、技術の基盤や制作のプロセスは時代によって異なる。1990年代以降は、パソコンとアプリケーション・ソフトによって、整版から印刷に至るプロセスは劇的に変わってきた。デジタル環境が浸透した今日では、表現技術や環境に対する影響も大きい。表現者は、かつての作品や技法から学ぶことが多いが、現在の技術や環境を起点にしたところから、遡って過去の表現と歴史、社会や文化的背景を見ていかなければ未来にも繋がらない。

 「様式は時代がつくり出すもの、その様式は同じ意味を伴って生き続けるわけではない」と若桑みどりが言ったように、概念は更新されていく。普遍性があるから生き続け、生き続けるために普遍的であろうとする。クラシック音楽を引き合いに出せばよくわかる。400年以上も前の楽曲が演奏され続けている。その時代の指揮者や演奏者、楽器、場所などによって、がらりと雰囲気が変わる楽曲もある。解釈を伴う思考と感情の表現でもあるからだ。音楽は見えないために、かえってこのことがわかりやすい。

 視覚表現も同じことで、その時代の文化や社会と密接に結びついている。時代が求める技術をつくり出し、技術は時代を動かしていく。16世紀以降、ヨーロッパでの活版印刷の普及、カメラオブスクラの登場と線遠近法、写真、映画の発展、石版印刷と結びついた光学技術による写真製版は、ヨーロッパでの視覚表現の形態を変えていく大きな出来事だった。新しい技術が経済と文化、社会を動かしていった。表現技術や手法も無縁ではない。写真は見えるものの概念を変え、アニメーションや映画は時間と空間の表現に新たな道を拓いた。写真光学技術と結びついた印刷は、写真製版、さらには3原色によるカラー写真製版に繋がった。17世紀、18世紀のヨーロッパでは、複製芸術の可能性を広げ、さまざまな大衆文化として発展していった。技術は相互に繋がっており、たとえば映画のモンタージュの手法は、書物の構成と編集に生かされている。この当時生まれた思考や形式は、現代にそのまま引き継がれている。そのことを前提に、絵やことばが生活の中でどのような意味を持ち、変化してきたのか、技術的な発展によって大きく変わってきたのは何だったのか、変わらず残っているのはなぜか、そこを見ていかなければ意味がない。過去の書物や作品に触れることは、その時代の技術や文化、生活に触れることであり、知識として知っていても身につかない。私たちが生きている現在から見ているという認識こそ必要なのだ。

 道具や機械は人の身体機能を外にも内にも拡張してきたが、基本的な人の身体機能と知覚機能は変わらない。視覚表現の歴史は、人の身体機能と知覚という変わらない機能を見つめ直し確認する歴史でもある。たとえば、見えるものを手によって描いたり、版画で表してきた技術は、3原色によるカラー写真製版によって、カメラの眼、いわゆる機械の眼に置き換えることができるようにもなった。しかし、一方でパソコンやスマートフォンの使用は、個人の直感的な操作と身体機能を自覚させる契機になり、その結果あらためて表現と向き合う身体と表現の関係が意識されるようになった。デジタル環境は製版と印刷の概念を変えたが、制作者の身体的な関与は、木版や銅版、石版と接する態度と大きく変わるわけではない。むしろ、精巧なカラー写真製版によって見えなくなっていた制作のプロセスが、再び身近な形で関与できるようになった。

 1990年代に入ると、視ること、感じとることの意味を問いかける表現が分野を問わず見られた。視て、感じとり、認識することの手がかりは何に基づいているのか、表すための手段を模索する身体はいつの時代も変わらない。私たちは否応なしにリアルな空間とサイバー空間の中で生きている。物質性とデジタルは対立する概念ではない。それぞれの環境で身体は意識される。パソコンを介して制作された極めて物質的な作品も生まれている。複製技術は人間社会に何をもたらしたのか、複製することの意味があらためて問われている。