25−芸術性と複製性のはざまで−2
町田隆要の画帖

町田隆要の孫にあたる加藤静子さんにお会いすることができた。以前、町田のポスターについて紹介したことがきっかけになった。新宿百人町にある自宅は47年前に訪ねた同じ場所だったが、現在はマンションになっている。駅からの町並みはすっかり変わっているが、歩いていると不思議な感覚になった。

 1階の1室は展示スペースになっていて、壁面に町田のポスター原画や水彩画が飾られていた。書棚には下絵やスケッチなどのファイル、関連書籍が並んでいる。
 ポスターや歴史画など印刷資料を中心に武蔵美に寄贈されていたが、原画や下絵などは想像していた以上にたくさん残されていた。
 町田は戦時中長男慎一氏と北海道に疎開で一時転居したが、制作したポスターなどと仕事に関わるほとんどの資料とともに移動したという。膨大な量だったと思うが、ずっと引き継がれ、ポスターなど印刷物は武蔵美に、それ以外の資料も大切に保管され現在に至っている。
 静子さんのご主人である加藤勝利さんは、プロダクト・デザイナーで、遺された貴重な資料を活かしたいとの想いから資料をデータ化し展示もしているのだという。

 あらためて何点もの下絵を見て驚いたのは、画面は小さいが完成作品そのままの緻密な描写だったことだ。当時は画家と石版画工が分業で、原画を描いた後は画工に委ねるのが一般的だった。町田の下絵が原画そのものだったのは、下絵から石版への描画まですべて一人で行ったからだ。画面には3センチ四方ほどの方眼の細い線が直接引いてある。石版に描画するためには、最終的な画面のイメージが色彩も含めて同じである必要があった。同じ絵を紙と石版に描いていたことになるが、石版には10色程度の分色版として1色ずつ描き分ける。印刷してはじめて完成した一枚の絵になる。
 現在なら原画に価値を見いだすことが多いが、町田は石版画として完成させることに情熱を傾けていたことが、下絵を見るとよくわかる。彼にとっては、単なる複製印刷物ではなく石版画としての作品を完成させることだった。
 下絵を見つめていると、制作にかけるひたむきな態度がひしひしと伝わってくる。原画から石版描画までを一人で手掛けた希有なポスター作家だった。

 さまざまな資料の中に、日本と欧米の著名な歴史的人物の顔をスケッチした画帖が何冊もあった。若いころ、歴史画や肖像画を描いていた時期があるが、その頃の画帖である。
 写真や印刷物だけを頼りにするのではなく、正確に把握するために描き留めている。精巧に描くために、まず自らの目と手で確認するためだろう。さらに驚嘆したのは、人物の全身像を墨で和紙に描いたものだ。綴じられ冊子になっていたが、その厚みは3センチ近くもあった。
 題材が決まってから描いたものもあるだろうが、描きためたスケッチは、素材として、知識として蓄えていた。緻密な描写の背景には入念な準備があったことがうかがえる。
 完成した作品だけでなく、関連するさまざまな資料を見ることによって、町田の類い稀な技術と情熱、そして人となりや仕事ぶりが浮かび上がってくる。制作者にとっても研究者にとっても、これらの資料が、散逸することなく受け継がれていくことを切に願わずにはいられない。

芸術性と複製性のはざまで