30–イラストレーションの表現性を振り返る-特別講義から

先日武蔵美グラフィックアーツ専攻の学生に「書物とイラストレーション」「印刷とグラフィックアート・版画」をテーマに講義を行なった。今年は1年生が対象ということで、どのような内容が適切なのか、どう組み立てるか、焦点をどこに合わせるか悩んだ。これから専門教育を受ける1年生にとっては、指針にも成りえると考えるとなおさらだった。

 最終的には、印刷によって表現されるグラフィックアートを前提に、イラストレーション表現が持つ本質や普遍性をあらためて確認できるような内容にすることにした。しかし、イラストレーションといっても定義づけは様々で、受けとめ方も一様ではない。最近では〈イラスト〉と言葉を縮めることでニュアンスも変わる。

 学生たちにとっては、アートとしてのイラストレーションに関心があることは昨年感じていた。絵画とイラストレーションの境界についても、あらためて考えてみる必要がある。そのように考えると、現実を見据えたうえで、視覚表現の歴史的な経緯を辿り確認していくことがやはり基本になる。

 イラストレーションはどのような背景から生まれたのか、イメージはどのように視覚化され、変容してきたのか。回りくどくても着実に見ていくことで、イラストレーションの普遍性もおのずと見えてくる。

 2000年以降に生まれた学生たちにとって、スマートフォンやタブレット端末を通して見る世界も日常であり現実だ。映像、会話や音楽など音を含め、すべての感覚機能を通して受けとめている。自然なことだけれども、表現の領域では専門の分野ごとに語られることが多い。

 歴史的に辿っていけば、イメージによるコミュニケーションは、絵や記号に合わせて語りや身振り、音を伴っていた。小さな集団から社会に広がっていく過程で、技術の発展と社会制度や文化、宗教の違いから専門化され分離していった。ことばや絵に対する関わり方も、時代と環境によって異なる。

 イメージの視覚化を・木版印刷から活字印刷・大航海時代がもたらした科学的探究・三次元空間と二次元空間・写真と映画の発明・アプリケーション・ソフトを使用した表現などをスライドを多用して振り返った。

 視覚表現の歴史は、人の身体機能と知覚という変わらない機能を見つめ直し確認する歴史でもある。パソコンやスマートフォンの使用も、個人の直感的な操作と身体機能を自覚させる契機になった。1990年代以降、視ること、感じとることの意味を問いかける表現が分野を問わず見られるようになった。視て、感じとり、認識することの手がかりは何に基づいているのか、表すための手段を模索する身体はいつの時代も変わらない。

 私たちは否応なしにリアルな空間とサイバー空間の中で生きている。物質性とデジタルは対立する概念ではない。それぞれの環境で身体は意識される。パソコンを介して制作された、極めて物質的なポーランドのアートブックを最後に紹介した。

 翌日は「印刷とグラフィックアート・版画」をテーマに話した。日本とヨーロッパの版画とグラフィックアートを比較しながら表現の変遷を振り返った。日本では江戸末期まで木版画が主流だったが、明治以降、ヨーロッパの文化と印刷技術が急速に広がり、30年あまりで印刷と出版環境が一気に変わる。木版画から始まった出発点は同じでも、産業革命以来の技術の進展の差は大きかった。印刷機の構造から製本は洋装本に替わり一般化していった。出版文化をはじめヨーロッパの視点に基づいたグローバル・スタンダードは現在にも繋がっている。イラストレーションも例外ではない。

 しかし、技術や文化の受容によって変質していったものがある一方で、変わらなかったこともある。言語や生活文化、社会の制度や慣習、宗教観に起因することは変化しにくい。文字に対する考え方や自然に対する捉え方などもそうだろう。たとえば、書物の形式と印刷はヨーロッパ式でも文字を縦に組む様式は消えていない。

 21cに入って近代以降の価値観も変わってきた。学生たちのコメントを読むとこれまでの価値観や方法論に囚われていない。手工的な技術に対しても、デジタル技術に対しても、柔軟に捉えていることが伝わってくる。

 2日間、朝9時から12時10分まで、かなり詰め込んだ内容だったが、それぞれが要所要所で関心を向けてくれたようだ。歴史的な経緯を踏まえて様々な表現を紹介したが、新鮮な気持ちで確かめることができたようだ。過去から、歴史から学ぶことによって、次に繋がっていくことが伝わったのではないかと思う。