21−芸術性と複製性のはざまで

先頃、立川市にあるたましん美術館に出かけた。「The Adventure of Fine Prints 版画からグラフィックアーツへ」と題した展覧会は、版画の来し方行く末を考えるうえで興味深いものだった。

 版画は芸術性と複製性のはざまで揺らぎ葛藤してきた長い歴史がある。版画は宗教的図像や書物に挿入された挿画の複製が起源であり、複数制作することを前提にした印刷表現だった。作家の創造性と芸術性の探求が、商業的な印刷物と区分して考えられてきたが、もともとは版画と複製−印刷の境界がはっきりしていた訳ではない。創造性や芸術性はグラフィック表現にもある。
 どちらも印刷を媒介するために、版材と技法の開発が伴い、版形式が表現の特性を決定づけてきた。製版のプロセスに力を注ぎ、表現の可能性を探究してきたという点では、同じような問題を抱えてきた。もっとも、版材に直接触れるかどうか、プレス機か輪転機かといった違いもある。

 ところが、いまでは版画でもグラフィックでも構想過程でパソコンを使用することも珍しくない。印刷もインクジェット・プリンターで手軽に刷れるようになり、制作環境はずいぶん変わった。
 デジタル環境は新たな表現の可能性をひろげてきたことも確かだ。版画かグラフィックかといった枠組みよりも、時代に応じた表現として、社会とつながるメディアとして変化していくのは当然のように思う。
 版の形式や最終形態をうんぬんするよりも、制作者の思考と創造性、さらには社会との関係性こそ注目されるべきことだろう。だからといって、デジタル環境が進んでも版画が培ってきた物質性と絵画性が失われることはないと思う。


 展示を観ながら、4年前の展覧会「石のまわりで」と、46年前の展覧会「近代日本印刷資料展−石版印刷を中心に」を思い出し、あるポスターが頭をよぎった。
 「蜂印香竄葡萄酒」というポスターで、14色を刷り重ねた砂目石版で印刷されたものだ。町田隆要(信次郎)が1913(大正2)年頃に制作したもので、私にとって思い出深いポスターの一つである。
 このポスターが商業ポスター、美人画ポスターとして一面的に見られることにずっと引っ掛かりがあった。それがまた気になりはじめたのである。

 私が展覧会の企画をはじめて任されたのは「近代日本印刷資料展−石版印刷を中心に」という展示だった。明治末から大正末期に制作された500点余の石版印刷資料を1974年11月、町田信次郎氏のご遺族、町田慎一氏から武蔵野美術大学が寄贈を受けていた。これを記念して1976年に開催された展覧会である。商業印刷としての石版刷りに焦点を合わせたものだ。「蜂印香竄葡萄酒」は展覧会の意図に添って中心に据えたポスターだった。

 資料の寄贈を受けたころ、日本の石版印刷に造詣が深い橋本正平氏との出会いがあったこともきっかけになった。橋本さんは、大日本印刷の前身である秀英舎の石版部泰錦堂で石版画工を経験し、60年近く印刷業界に関わった。私が出会ったときは製版会社の社長を退いて間もないころだった。
 展覧会の企画を任され、引き受けることになったのも橋本さんとの縁もあったからだ。展示の準備の過程で、当時の技法について聞くために吉祥寺の自宅に足しげく通った。一つ一つ制作工程の解説を受けたが、分色の校正刷りなど実物を前にすることで、より理解を深めることができた。
 話を聞けば聞くほど、当時の石版印刷技術がいかに熟練した職人技に支えられていたか、印刷だけでなく絵画の知識や技量も必要だったことがよく分かった。しかもそれは日本特有ともいえる環境だった。
 ルーペを通して見ると印刷面が緻密で精巧なことに驚かされる。色の異なる小さな点が整然と並び、干渉して色が混ざり合う。網点によるカラー印刷を手技でこなしていたのである。人物や植物が写真技術を使わずに緻密に表現され印刷されていることにただただ驚嘆した。

 当時の印刷会社には石版部門があり、何名かの石版画工を抱えていた。画工は雑誌の口絵から額絵、ポスターなどを手がけ、大正末期まで重要な役割を担っていた。橋本さんによれば、画工は東京美術学校(現東京藝術大学)の学生アルバイトから卒業生、現場で育った画工まで多様な構成だった。雇用形態も内勤から専属契約などさまざまだった。
 熟練した技術を持った画工は先生と呼ばれ、給料も良く工場長に匹敵するほどの待遇を受けていた。橋本さんがいた頃、石版彫刻の名手といわれた金子政次郎は、隔日出勤、勤務時間も4時までと優遇され、社員でありながら社内外に門下生が200名ほどいたという。他に顧問や契約している洋画家もいて、月に数回はデッサンの指導も受けていた。
 印刷会社によって扱うものが違っていた。泰錦堂はラベル類の他、雑誌の表紙と口絵、絵はがきなどが多く、ポスターは三間印刷が得意としていた。
 内勤の画工の職能は、印刷会社に所属する現在のグラフィック・デザイナーに近いものだった。ラベルなどの制作ではデザインから製版まですべて行っている。

 資料は、秀英舎で捨てられそうになった校正刷りなどを橋本さんが個人的に収集し保管していたものだ。石鹸やビール、銘仙などの石版刷ラベル類は200枚以上あった。海外の図柄を模倣していたとはいえ、和洋折衷された画工独自の図柄が不思議と魅力的だった。休みの日に橋本さんを訪ねることがとても楽しみだった。
 「近代日本印刷資料展」では〈町田コレクション〉に加え、橋本さんが所蔵していた石版刷ラベル類の他、明治から大正初期の雑誌の表紙と口絵、絵はがきなども展示した。点描石版の再現までしていただいた。

 展覧会がきっかけで、橋本さんが亡くなるまでの10年ほど1年に数回訪ねるようになった。いつもご夫婦で迎えてくださり、書斎にはすでにその日のための資料が広げられていた。一段落ついた後、お茶を飲みながら交わした雑談も忘れられない思い出である。
 私にとって、橋本さんから教わったことは大きな財産になっている。石版画工の経験に基づいた細部に渡る技法と専門的な観方は、書物からは到底得られないものだった。そして興味深かったのは、彼らが仕事に臨む姿勢と強い専門意識だった。

 この間、多田北烏のポスターの寄贈も取り持っていただいた。多田北烏の高弟だった風間四郎氏が保管していたものだ。橋本さんと風間さんは同世代で親交があった。北烏は1922(大正11)年にデザイン・スタジオ「サンスタジオ」を設立するほど、早くから共同作業を前提にした商業美術家として活動していた。現在も武蔵野美術大学美術館に〈多田北烏コレクション〉として保存されている。〈町田コレクション〉に〈多田北烏コレクション〉が加わり、この時期の貴重な資料群になっている。

●●
 「蜂印香竄葡萄酒」は、美人画を題材にした精巧で緻密な砂目石版印刷による町田隆要の代表的なポスターである。特筆すべきは下絵から石版への描画まですべて一人で行ったことだ。
 町田は東京美術学校を中退し、1894(明治27)年頃から石版印刷の世界に入った。本多錦吉郎に師事し、油絵、石版画を学んだ。額絵などを中心に、砂目石版による多くの石版印刷物を手がけた。その後商業美術家として活躍するが、原画から石版描画まで一人で手掛けた数少ないポスター作家だった。
 画工がラベルや額絵を一人で手がけることは珍しくなかったが、ポスターの原画から石版への描画まですべて一人で担うことは稀だった。
 といっても、製版を専門とする画工から、町田のように画家であり石版画工というのも、もともとは珍しくなかった。三間印刷の石版画工だった波々伯部金州は、三越呉服店の美人画ポスターを数多く手がけ、石版画家としてその名は知られていた。町田も同じような立場で三間印刷に所属していた時期がある。

 ところが、美人画ポスターが流行したことによって、熟練した画工でも著名な日本画家や油絵画家の原画や下絵をもとに描画することが増えていった。大判のポスターでは、岡田三郎助や橋口五葉、北野恒富、杉浦非水らの人気作家が前面に出るようになり、作家の落款は入っても画工の名前が記されることはなかった。
 需要が高まるほど、画工の熟練した正確な描画力が求められ、待遇は良かったが匿名の作家として甘んじるしかなかった。

 機械的に忠実に再現、複製に徹するすることに抵抗を感じる画工も当然いた。同じような境遇にあった画工の中には、画家や版画家として自立していった者も多い。
 「自画石版」を標榜した織田一磨もそんな一人だった。日本創作版画協会を設立し、創作版画運動に身を置くが、創作版画協会に引き継がれた後は山本鼎や石井柏亭らの創作木版画が中心になっていった。創作石版画は、この時期容易に受け入れられる環境ではなかった。日本の石版印刷が、商業印刷を中心に導入され、効率化と写真製版の発展とともにあったことも無縁ではなかっただろう。
 町田の立場は微妙だったのだろう。画家としての力量とともに石版画工としての技巧が秀でていたために、画家でも版画家でもなく石版画家であり続けた。師である本多錦吉郎との関係も大きかった。1907(明治40)年に本多が提唱した「虹交会」に町田も参加している。石版画工同業者の親睦と技術の向上を目的にしたものだった。

 大正期に入ると、石版に変わって亜鉛版やアルミニューム版が積極的に使われるようになり、写真製版の実用化も進んだ。ともなって石版画家としての仕事は次第に減少し、本来の仕事から離れて写真版の細部の修正を担うようになっていった。
 町田は写真製版が主流になっていく過程でも、描画と構成に創造性を求めながら原画を描き続けた。やがて、本格的に商業美術家として活動することを決めたのは40代半ばになってからであり、名前も信次郎から隆要に改めた。代表作の一つ「大阪商船会社」(1916年)を制作した頃である。
 このポスターは当時話題になったというが、『日本の広告美術−明治・大正・昭和・1ポスター』(美術出版社1968年)には作者不詳として掲載された。

 町田がポスター「松坂屋 いとう呉服店」(1922)で、第5回台麓図案会ポスター募集に応募し、大賞1等を受賞したときはすでに51歳だった。
 町田が活躍した時期は石版画家の需要が減りはじめた頃で、商業美術家としては、多田北烏ら若手が台頭していた。さらに、関東大震災後若い作家を中心にヨーロッパの新しい芸術運動が急激に広がり、絵画的なポスターは敬遠されるようになっていった。

 1931(昭和6)年、満州事変が勃発した頃から町田は商業美術を離れ、静物画などを描くことに没頭したという。長男慎一氏によれば、美術家として終えたいという気持ちがあったのだという。第2次世界大戦が勃発したときは70歳だった。

 織田も町田も、自ら描画する石版画に執着したが、戦後しばらく忘れられた存在だった。その時代の動向に翻弄されてきたところもある。石版画ポスターがもてはやされた期間が短かったこともあるが、石版画家や画工にとって、活動の見定め方や選択によって、その後の人生に影響を及ぼしたことは否めない。
 展覧会を観ながら、町田隆要について書いておく必要があると思ったのは、石版画ポスターを評価することの難しさを感じたからである。

●●●
 あらためてこのポスター「蜂印香竄葡萄酒」を見ると、並外れた観察眼と分析に基づいていることが理解できる。それも執拗に細部に目を向けている。
 目的が複製印刷による絵画だったとしても、ここには独自に解釈された町田固有の石版画ならではの表現性がある。まず描こうとする女性像があり、背景や全体の構成を考え下絵を描く。町田の下絵は、ポスターのために描かれた日本画や油絵と違いそれほど大きなものではない。丁寧に彩色されてはいるが3センチ四方ほどの方眼の入った下絵でしかない。石版がキャンバスや用紙にあたり、そこに直接描画していく。しかも14色に分色してペンや筆で描き分ける。最終的な仕上がりと色彩を想定しながら、複眼の視点で見つめ、分類、統合した石版に描写した固有のイメージである。

 このポスターは精巧で緻密な表現のために、これまではどうしても技術的な側面ばかりを注目してきたところがある。
 確かに随所に細かな技術的な工夫が見られる。髪の毛や目は細い線や点描で補正し、葡萄酒のラベル部分は一旦銅版彫刻刷りしたものを石版に転写している。砂目石版の表現効果を熟知していたからこそ可能な表現である。
 人物を際立たせるために背景の描写を変えることや、日常のほほ笑ましい情景を背景に加えることが多いのも町田独特の表現である。

 このポスターを制作した頃はすでに写真技術の応用が進み、写真製版技術が急速に進化していく時期だった。町田の作品もその後は新しい製版法と構成法を取り入れたものに大きく変わっていった。
 「蜂印香竄葡萄酒」は、写真技術や網伏せなど効率的な手法をを用いないで、すべてを手技で完成させた最後の作品ともいえるものだ。制作にあたって、本格的な石版印刷の時代が終わることを自覚していたのではないかとさえ思える。持てる技術を駆使し、並々ならぬ情熱を傾けて制作したことが想像できる。
 町田は写真製版による効率性を理解しつつ、あえて不自由で手数のかかる石版で納得のいく表現を追求したのだろう。制作を楽しんでさえいる。ブドウの上にはラベルと同じ蜂が留まっている。石版印刷表現に対する情熱と自負が生み出したものだろう。町田にとっても会心の出来だったに違いない。
 もっとも、このような技術は受け継がれていくことはなかった。日本画や油絵を忠実に再現する方法は、カラー写真製版によって簡単に複製し印刷することができるからだ。ましてや、コンピュータ制御によって精度も一層高まった。

 「蜂印香竄葡萄酒」の制作過程は、現在の版画とそれほど大きな違いはない。自ら石版に描画し、試し刷りと校正を重ねながら仕上げる。残されたこのポスターは校正刷りであり、数枚だけ版から直に印刷されたものだからなおさらそうである。
 町田の生涯の作品を通覧すると、自分自身にとって石版画とは、という問いがいつもあったのだろう。商業美術家として新たな表現の境地を開こうとしながらも、芸術性と複製性のはざまで葛藤していた心境が伝わってくる。
 自らの身体を駆使してそのものに接近していく眼差しと姿勢、複眼的に観察する感覚は町田特有のものだ。単眼単視点のカメラでは見えてこないもの、細部にこだわり、見えないものも描こうとした。
 技術の進歩は効率性を高め、身体機能をなるべく使わなくても解決できるようになった。それでもなお、自ら描画することにこだわった。

 日本では、版材との対話性や物質性を求めた結果が創作版画に繋がっていったのだろう。石版画ポスターは、商業美術、あるいは応用美術として別の道を歩んだが、そもそも境界はどこにあったのだろうか。
 複製印刷技術が深く関わっていたとはいえ、日本特有の石版画ポスターとそれを支えた石版画家、とりわけ町田隆要はもっと評価されてきてもよかったように思えてならない。

関連記事:「複製−印刷技術史からみるリトグラフ」『リトグラフ 石のまわりで』
展覧会図録 武蔵野美術大学美術館・図書館 2018年5月

「蜂印香竄葡萄酒」
「蜂印香竄葡萄酒」町田隆要(信次郎)1913年頃
「松坂屋 いとう呉服店」町田隆要1922年