24-身体的記憶とデザイン

デパートのエスカレーターが点検のために途中で止まっていた。4階から3階へは歩いて下りなければならない。歩いて下りると足の踏む出し方が不自然でなんともぎこちない。このような経験はこれまでにも何度かある。その度にぎこちなさを感じる。動いていることを前提に、身体的な記憶が止まったエスカレーターに反応してしまうからだろう。

 人は、経験や身体の記憶を手がかりに行動していることが思いのほかある。突き出たものがあればとっさに身をかわす、水たまりはまたぐ、ベンチでなくても、腰掛けられそうなら瞬時に判断して座る。階段があると自然に上ったり下りたりする。

 私たちが学習していることは身体的な記憶とも繋がっているから面白い。エスカレーターへの反応も、階段との違いを視覚を通して判断しているから起こる。止まったエスカレーターは、普通の階段のようにはすぐには認識できない。エスカレーターは動いているものとして身体が記憶しているからだ。
 日々の暮らしには、経験や身体の記憶に関連づけられていることが多い。乳幼児は、はいはいをしながら指先でまわりを探り、感じとりながらまわりの世界を確認し広げていく。これも身体で記憶していく最初の行為だろう。

 そのように見ると、身体的な記憶と行動を関連づけることは生まれたときからはじまっている。人の行為とものや情報を関係づけ、サポートすることもデザインの役割といえる。実際まわりにはそのようなデザインが少なからずある。
 ドアのノブを見れば自然に回す、レバーだと押し下げる。細部の形状が違っていても基本的な機能は共通している。基本形を元に握りやすさや大きさ、レバーなら長さや邪魔にならない形状が工夫されデザインされている。形体の美しさだけではない。

 おりしも、「円柱形のつまみの回転操作における指の使用状況について」の研究が、今年のイグノーベル賞を受賞した記事が出ていた。
 千葉工業大学教授で、デザイン科学が専門の松崎元さんが大学院生だったころの研究だそうだが、ドアノブやキャップを回す際に、大きさや形状によって、無意識に指の使い方を変えていることを調査したという。円柱の直径が1センチ未満では2本の指、円柱が太くなるほど使用する指の本数が増え、直径が9センチを超えると5本の指を使い、触れる際の指の位置なども変わるという。
 松崎さんもデザインに役立てることができる、と話しているように、これも身体的記憶とデザインが結びついていく例だろう。

 誰もが持っている共通の記憶や感覚に働きかけることで、デザインは生かされていく。
さまざまな日用品だけでなく、駅構内の表示や施設、設備の配置、ATMや券売機のボタンの位置と操作などもそうだ。いまでは銀行をはじめ、デパートなどさまざまな業種でスマートフォンのアプリがあたりまえになり、指先での操作が求められる。よく考えられているものはスムーズに指先が移動するが、戸惑うものもある。次の操作にスムーズに繋がっていかない、知りたい情報になかなかたどり着けないものは結構ある。
 電話機も機能が盛りだくさんになると、一つのボタンにさまざまな機能を持たせるために、憶えておくことができなくなってしまう。そうすると一部の機能しか使わない、何のための多機能かと思ってしまうことがある。おせっかいだと思えてしまうものすらある。

 直感的に操作ができるインターフェースは、人の行動や心理状態が考えられているから対話できる。データと観念に囚われ過ぎると見えなくなるものもある。データをどう読み、どのように使うかが大切だろう。感覚機能など人間の身体的な営みは大きくは変わっていない。
 一方で、意図的に裏切られることによって、感覚がより刺激され集中できることもある。ちょっとした遊び心も気持ちが和む。
 デジタル機器が増えたこともあり、生活の中で身体的な細部の機能が求められる機会は増えたように思う。とりわけ指先で接するものがたくさんある。それだけにインタラクション・デザインなど認知機能からデザインを考えていくことはますます重要になっていくのだろう。
 身体的な経験や記憶が生活とどれほど結びついているかを考えると、つくる方にも使う方にも想像力が求められる。さまざまな表示や機器のボタン類、家具や建築物など、身の回りのデザインをじっくり観察してみるのも面白い。