15–今ここにあるもの、表すこと

照りつけるような暑さのなかで、窓の外を見上げると入道雲がむくむくと膨らんでいく。真っ青な空とのコントラストと雑木との重なりが美しい。形を変えていく雲の動きは見ていて飽きない。何本も目の前を横に走る電線、いつもは邪魔だと思っていた。10羽くらいのヒヨドリが一列に並んでいる。入道雲と重ねて見るのははじめてだった。春には庭の椿の花心を突き、ほとんど落とされてしまう。そんなヒヨドリもほほ笑ましく見えてしまう。
 電線の下にあった雑木林は、高さを増して上の方まで延びている。雑木の間からは新しい家も見える。夏になれば見られる同じような光景も、昨年の夏とは違う。あたり前のことだけれど、一年一年、日々周りの光景と暮らしぶりは変化している。来年の夏にはまた変わっているのだろう。今目の前にあるものをしっかり見つめていたい、愉しみたいと思う。

 今目の前にあるものは昨日と同じではない。こんなことを真剣に考えたのは美術大学の1年生のときで、鉛筆デッサンをしているときだった。その日は雨で、テーブルに置かれたモチーフには陰影がなく全体が灰色がかっていた。
 鉛筆デッサンは、午前中3時間、1週間かけて描くことになっている。この日は3日目で、1週間続くことにうんざりしていた。
 一昨日から描きはじめた画面とモチーフの見え方が違う、モチーフは立体物と野菜、果物を組み合わせたものだったと思う。モチーフにはっきりとした陰影はなく、果物の色も幾分違って見える。光がほとんどないのだから、あたり前なのだが、それがとても気になった。
 「しっかり見て描くように」といつも言われるのだが、結局は正確に形をとり画面に構成することだった。デザイン系のデッサンの授業だったので仕方ないところもあったのだが、見えるように描いてみよう、とそのとき思った。
 昨日まであった明るい面を鉛筆で塗りつぶしていく。光がほとんどないのだから平坦なトーンになっていく。目の前にあるモチーフはすでに2日以上経過している。果物や野菜の鮮度だって落ちている。昨日と同じではない。朝9時から3時間経てば太陽の位置だって違う。そんなことを考えながら描くと新鮮な気持ちになり愉しめた。翌日晴れると暗いところをどんどん消していく。こんなことを繰り返せば画面は汚れていく。今ここにあるものを見えるように描いていく、昨日は昨日そこにあったものを描いていた。デッサンを完成させようという意識はなかった。それでもえも言えぬ満足感があった。提出のときそんな話をしたが、「おまえはアホか」と一蹴されてしまった。

 このころ、エドムント・フッサールの『現象学の理念』を読んでいた。難解で数ページ読んではメモを取りながら真剣に考えた。
 フッサールのエポケー(判断停止)は、あたり前のようにそこに存在するという前提を止めることにある。知覚する態度を改めて対象と接する。今ここにあるものに集中し、自らの心の動きを見極める。この見方をデッサンで試してみたかった。
 目の前にある果物や野菜は、かつて見たことのあるもの、知っているものであり、見えないところ、隠れているところもおおよそ想像がつく。しかし、背後の一部は切り落とされているかもしれないし、「のようなもの」で、はじめて見るものかもしれない。おのずと、モチーフに近づきさまざまな角度から観察し確認する。見えているところだけを描いている訳ではないからだ。
 ものを見るとき、経験や記憶、先入観がいかに支配しているかが分かる。もちろん、経験や記憶があるから周りの世界を実態として把握できるのだが、本質を見ることとは違う。デッサンすることは、心の動きと対象を関係づけることであり、対象の本質を探究する行為である。しかも、ありのままの自分を引き出す行為でもある。明確な答えなどないはずだ。
 このときのデッサンの経験は、その後の思考に大きな影響を及ぼしていった。今ここにあるものの本質を見つめること、記憶や想起によって関係づけられていくことが、おぼろげながら頭の中をめぐるようになり、その後のテーマに繋がっていった。