ウオーキングを愉しむ

 昨年緊急事態宣言が出て以来、ウオーキングを心がけている。コロナ禍で出かけることが少なくなり、回数を増やしたが思いのほか身も心も安らぐ。40分ほど歩いているが、以前と比べると出会う人の数も多い。いままではそんなことをしなかったのに、出会った人を数えてみると多いときは30人ほどにもなる。トレーニングウエアに身を固めさっそうと歩いている人、犬の散歩をしている人、夫婦でのんびり歩いている人、実にさまざまだ。いつも見かける人もいるが、どんなことを考えながら歩いているのだろう、と想像してみるのも愉しい。
 もちろん、梅、桃、桜など季節ごとに変わる花を眺めるのも愉しい。咲きはじめから散るときまで、経過を気にすることなどこれまでなかったことだ。道端に咲く草花の鮮やかな色合いにも心が和む。
 ほぼ中間地点、緩やかな坂道を登っていったところに二つの神社、八幡神社と水天宮がある。ここで一息つくが、この時期は新緑がまぶしく、木々の隙間を見上げると悩みも鬱々とした気分も抜けた空に吸い込まれていく。自然が包みこむ力なのだろう。
 八幡神社は、新田義貞が鎌倉攻めの折り戦勝を祈願したと伝えられ、境内には兜をかけた松、鎧を置いたところに祀った祠がある。案内板には1333年5月と記されている。
 徳川家康以来幕末まで代々将軍より寄進されていた由緒のある神社なのである。この境内を訪れた武将や地元の人たちがどれほどいるのだろう、と想像すると興味も尽きない。地図には名称しか表れないが、隣にある水天宮とともにこの境内を中心に生活の営みが連綿と続いてきた。この地域の地理性に思いを馳せると帰りの風景もまた違って見える。
 これまで何度も訪れた神社の境内なのに、ウオーキングのコースとして週4日ほども通うと特別な場所に思えてくる。思考と気持ちの整理にうってつけなのだ。
 ウオーキングの効用だろうか、面白いもので、その日その日で途中考えることも、見るものも同じではないところがいい、日々愉しめる。嫌なことがあっても歩いているうちに忘れてしまう。
 もともと観察することは好きだったのに、自然と向き合う時間は減っていたように思う。机に向かっているだけでは見えてこないものもある、と教えてくれる。