断捨離を悔やむ

 断捨離、何年か前にメディアを賑わした言葉だ。コロナ禍で篭る生活が続き、文章をしたためることや本を手に取る機会も増えた。伴って「あ、あの本がない」も増えた。
 数年前、退職を機会に思い切って断捨離を断行したからだ。研究室の本も10分の1ほど残して処分した。スライドやコピー資料などもほとんど廃棄した。ついでにと、自宅の本や資料もかなり処分してしまった。必要なときには図書館に行けばいいと簡単に考えていたからだ。
 然るべき人たちに渡って生かされているものもあり、それはそれでよかったと思っている。ところが、自分の中で優先順位が低かったはずの本や雑誌ほど「あ、ない」になっていることが多い。
 調べごとをしたり、原稿を書いたりしているとき、書棚に見つからないのは、ほとんどがそのような本やコピー資料だったりする。その場で確認したいようなことは、図書館に出かけるほどのことではない。
 身の回りの雑多なものは断捨離もいいかもしれないが、本は違う。今さらながら悔やんでいる。
せめてデジタル・ライブラリーで、と思うが、充実した国立国会図書館ですら、図書は1968年までに出版されたものであり、ネットで閲覧できる図書は限られている。
 書物は特別なものであり、要、不要で分けられるものではないことをつくづく感じる。書棚を眺めていると、長い間眠っている本にもそれぞれに意味があり、愛着もある。
 何十年ぶりだろうか、『潤一郎訳 源氏物語』を取り出してみた。全5巻+別巻からなり、中学3年生の時父が買ってくれたものだ。表紙は地模様の入った布製で、巻ごとに色彩も異なる。墨1色ながら挿画も入っている。当時としては贅沢な本だったのだろう。
 ページを繰っていると当時のことが蘇る。本の美しさに見とれ宝物のように扱っていた。当時は気づかなかったが、56葉の挿画は、安田靫彦、奥村土牛ら14人の錚錚たる画家によるものだった。
思い返してみると、この本を処分しようと考えたことは一度もない。