6−触れること、体感すること−①

インターネットは、私たちに時間や距離に囚われないさまざまな環境を提供してくれる。リモート・ミーティングやヴァーチャルな旅行も新たな生活の形態として受け入れられている。
一方で鬱々とした気持ちからなかなか解放されないでいる人も多い。人と人の物理的な接触を極力避けることを強要されるが、これは、日常の営みと社会生活を根本から否定されているようなことでもある。もっとも、ネット・コミュニティーは、情報交換と交流に欠かせない場にすらなっている。人と人の接触が阻害されている訳でもない。そうだとすれば、対話や交流に対する捉え方も変化しているということだろう。ネット社会では、人と人の物理的な接触、対象と直接触れる感覚は思っている以上に希薄になっているのかもしれない。
前回、ネット・ミュージアムの可能性について書いたが、人やものと触れる感覚がさらに希薄になっていくのであれば、意図することは違ってしまう。見えているものがすべてではない。見えていないもの中にある本質こそ問われるべきだと思っている。
コロナ禍を契機に、私たちの日常と生きる環境を見つめ直そうという動きがある。「社会的距離」から、あえて「触れる」ことが注目されるのも、一つの流れだろう。
7月の終わりにNHK-Eテレで放送された「心が踊る生物教室」は興味深い内容だった。昨年11月と今年5月に放送されたものに加えて、新たに編集制作されたものだ。筑波大学付属視覚特別支援学校(盲学校)武井洋子先生による触る授業を紹介したもので、視覚障害のある中学生の自然観察を通して学ぶ記録である。ドキュメンタリーを通して、触れること、感じとることの大切さと障害とは何かをあらためて考えさせられた。
植物観察では、校庭のクスノキを触りながら、同じ木でも硬い葉と柔らかい若葉があることを知る。葉の葉脈に触れ他の木の葉との違いを把握していく。ツツジの花は、匂いを嗅ぎ、花びらをなめイメージを膨らませる。「いい匂い」「おいしそう」と声を弾ませる。「赤紫色」「ピンクの濃い色かな」と先生が伝えると納得している。
見え方は異なるのだろうが、生徒たちには日常の風景がしっかりと見えていて、周りの世界、空間が形成されている。視覚に障害があることは、不利ではあるだろうが世界が狭いとはいえない。身体全体で自己と自然の関係を把握している。
私は、さまざまな葉の感触や木の種類による葉の細かな違いを忘れてしまっていることに気づかされる。クスノキについて、生徒たちとどれほど語り合えるのだろう、景色を眺めていてもどれだけ触れているだろうか、と考えてしまう。
人間の感覚機能の内、視覚は70~80%を占めるといわれる。しかし、他の感覚機能を含め全感覚を通して対象を知覚し認識している。強い日差しに肌から暑さを感じ、木の枝や葉の揺れる音、夕立の匂いや木陰に涼を感じたりもする。車が行き交うノイズも街の空間として認識できるものである。
周りの世界を把握するために感覚機能を十分活用しなければ、生徒たちより自然を知っているとはいえない。ましてや、見ることも漫然としたものであればなおさらである。私たちは視覚に頼るところが大きい。見ることで了解し、わかったつもりになってしまうことも多い。見ているようで見ていない。体感すること、確認することは能動的な行為である。積極的に対象に近づいていくことによって、そのものの固有性が立ち現れる。
さらに、生徒たちは言葉にすることで感じたことを関係づけていく、言葉にすることは、確認するためのプロセスであり、感じたことを仲間と共有するためでもある。自ら獲得した“ことば”は普遍的なものになっていく。
生徒たちは、置かれている環境、これまでの経験や持っている知識が同じではないことをよく知っている。そのために言葉にすることを大切にしている。共通の認識が持てるのは、それぞれが感じたことを共有できる言葉があるからだ。仲間や先生たち、家族とあたり前のように会話しているが、異なった空間の中に生きていることに違いはない。想像し創造していくことによって広がっていく世界を楽しんでいる。
生徒たちにとって、触れることは世界への入口であり出発点、全身で受けとめる積極的な行為によって、自然と関係づけられた自己を見つめている。耳目に触れる、空気に触れる、心に触れるなど、「触れる」ことは、触覚だけによるものではない。人が知覚し認識することの根源的な問いがそこにはある。