2-アート・デザインについて

アートやデザインは、生活から生まれたものであり、身近なものであるにもかかわらず、特別なものという印象がある。アートやデザインは誰のためにあるのか、40年以上も前に感じた疑問が現在まで繋がっている。教育の現場では、技術的なことや表現することが先行し、文化的な視点から語られることがあまりなかったからである。アートもデザインも生活環境の中でこそ意味を持つ。一貫して考えてきたことであり、これまで、制作も研究もそこを基盤にしてきた。
アートやデザインを今日的な視点で捉えるためには、日々の暮らしに目を向け、地域とのかかわりを新たな視点で捉える必要があると考えたからである。むろん20年の間に考え方も方法論も変わっていった。反省すべきことも多いが、問題点や課題、可能性を明らかにすることもできた。

この15年あまり、「記憶」は主要なテーマであり、そこから「記憶とイメージ」「記憶の表象」「記憶と記録」などについて考えてきた。絵本やポスターなど視覚表現について研究することが主たる専門分野であるが、長年関わったワークショップは、それらの研究と無縁ではなかったと思っている。「記憶とイメージ」や「ことばとイメージ」について考える上で、ワークショップは視点と方法論を変えた実践的な考察の場と位置づけていたからである。
「記憶の現在性」「記憶の再記憶化」について触れることがあるが、私にとっては、小学校低学年のころの記憶が今でも鮮明によみがえる。1年生のとき「朝の観察日記」を毎日課された。通学時に何か一つ観察し簡単な絵と文を提出しなければならない。最初は課題もそうだが、20分早く家を出ることが辛かった。ところが少しずつ見つける楽しさに変わっていったことを覚えている。2〜3年生では、自然観察を全員が分担し、百葉箱係り、雲や風向き、植物や動物観察係りなどに分かれ、毎日1枚にまとめる作業を行った。小学校2年生で新聞の天気図が読め、雲の名前もほとんどわかっていた。今考えれば不思議な気がするが、身体で感じとること、学び、知識、遊びが一体になっていたように思う。
数年前、偶然に当時の国語の教科書(1951年、52年発行)に触れる機会があった。柳田国男が監修したものだ。そこには絵だけで文字のないところが何ページもある。描かれているのは学校や家庭で過ごす子どもたちの情景である。戦後国語教科書の編纂に携わった前沢明さんは、絵から言葉を引き出す。「話す」「聞く」ための言語活動が展開できるように、絵を中心にする編集意図があったのだという。教科書のことは忘れていたが、実物を見ることで記憶がよみがえり、観察記録をまとめるときも、頻繁に話し合っていたことを思い出す。さまざまな「もの」や「こと」が絵を見ながら関係づけられて言葉になっていく。このような教科書の使用は長くは続かなかったそうだが、私はたまたまその時代に立ち会っていたことになる。
この時期の記憶が、事あるごとによみがえるのは、教育、研究に携わる者として、また生きる上でも原点になっていると自覚しているからである。国語教育は、言葉や文法を覚えること、文章表現が中心になっているが、絵を読むこと、情動も言語教育には含まれる。一方美術教育は、絵を描くこと、技術に重きを置くが、背景には豊かな言葉がある。すべての「もの」や「こと」は関係づけられている。日常の生活を振り返れば、身近にあるさまざまなものを結びつけ、まとまりのある情景として認識している。言葉は、「話す」「聞く」「読む」ことによって、相互に関係づけられ意味や場の認識を共有する。
どのようなものも単独では成り立たない。アートやデザインも同様である。たとえば画家がどんなに大きな絵を描いたとしても、発表しなければ誰も絵の存在を知ることはない。デザインも生活から見ていくと、テーブルや椅子は、人が座り使うという行為によって意味を持つ。さらに、食事や仕事など、どのような場所でどのように使われるのか、一人か複数なのか、使う人の価値観や置かれる環境の中で関係性も変わる。私たちの生活は、あらゆる「もの」や「こと」で関係づけられている。そこにアートやデザインが織り込まれているとすれば、造形だけで考える必要もない。音楽と美術も生活の中で密接に繋がっているし、演劇もそうだ。

(『ワークショップのはなしをしよう 芸術文化がつくる地域社会』武蔵野美術大学出版局2016年の「おわりに」から抜粋し、一部手を加えた) 

2020.6.23