22–受け継がれてきたもの−原弘のデザイン

武蔵野美術大学美術館で「原弘と造型:1920年代の新興美術運動から」展が開催されている。原弘の仕事は、東京国立近代美術館をはじめ多くの美術館で紹介されてきた。ほとんどは戦後のポスターや装幀を中心にしたものだが、1920年代30年代に焦点を合わせた展覧会ははじめてだろう。
 展示作品には東京府立工芸学校教員時代のものも含まれている。新興美術運動に身を投じた20代30代のものが中心で、展示公開されてこなかった作品も多い。特種東海製紙が所蔵する作品が多数含まれている。

 今年の4月、「折々に-19 ロシア絵本と光吉夏弥、原弘」で、原が遺した資料を特種製紙に移管された翌年に見に行ったことを書いたばかりだ。展示されている作品から、当時感動したのとはまた違った印象で受けとめることができた。必見の展覧会だと思う。

 原は東京府立工芸学校印刷科の第1期生で、美術科や図案科出身の作家とは異なった道を歩んだ。印刷することを前提にした表現であり、おのずとメディアに対する関心が当初から強かった。現在のグラフィック・デザインであり、視覚伝達デザインの考え方である。

 展示されている作品を追っていくと、原のデザイン思想や教育に対する考え方が武蔵美のデザイン教育に連綿と受け継がれてきたことがよくわかる。
 原が武蔵美で教えることになったのは1935年のことで、武蔵美の前身である帝国美術学校が分裂したときに遡る。
 意外と知られていないが、武蔵美と多摩美はもともとは一つの学校だった。多摩美は、分裂後多摩帝国美術学校として発足した学校である。
 帝国美術学校の学生は、西洋画科を中心に前衛的な研究グループJAN(美術新青年)を結成するなど、時代を反映してかなり前衛的だった。活動は先鋭的で、社会的にも知られるほど激しいものだった。
 こうした学生の動きと、当時の校長北怜吉との間に東横沿線への校地移転をめぐって対立が起こった。北とその周辺の教員、工芸図案科主任杉浦非水らが新たな学校を設立することになり、工芸図案科の大半の学生も移ることになった。
 1935年に帝国美術学校は分裂し、帝国美術学校と多摩帝国美術学校に分かれた。現在の武蔵野美術大学と多摩美術大学である。
 西洋画科と工芸図案科の対立による分裂という様相もあり、帝国美術学校の工芸図案科は壊滅状態だった。再建にあたって教員の補充が行われ、このときバウハウスで学んだ山脇巌、舞台美術の三林亮太郎らとともに原が加わった。原32歳、タイポグラフィと写真の構成で、デザイナーとしての地位を確立していったころである。
 残った教員は、どちらかといえば在野の画壇に所属する人が多かったこともあり、工芸図案科の再建にあたっても、新興美術と深く関わった人たちが多数参加している。
 若い教員を中心にした教育は、ヨーロッパの新しい美術思潮、思想を取り入れ、その後の日本におけるバウハウス教育の実践に繋がっていった。
 現在も武蔵美と多摩美は比較され、校風の違いも言われるが、分裂した時に両校の特色の違いは、すでに決定づけられていたともいえる。

 私が入学したころ、活版印刷とオフセット印刷を中心にした印刷工房と、現像、焼き付けができる暗室、撮影用のスタジオも併設した写真工房が整備されていた。印刷実習と写真実習は2年次の重要な基礎科目として位置づけられていた。
 印刷工房のマップケースには、原教授指導の実習作品が残されていた。ブックデザインをヤン・チヒョルトが手がけたときのペンギンブックスの〈扉ページ〉をリデザインしたものだ。
 タイトルと著者名、出版年、発行所だけを欧文活字で組み印刷したシンプルなものだった。
 基本は、アタマ揃え、センター揃え、シリ揃えしかなく、書体の選択、文字の大きさ、行間の定め方にはじまり、余白の空間を意識したタイポグラフィの基本が徹底して指導されたという。工房の助手によれば、スペースの取り方も1ミリ単位の指導だったという。
 基礎的な知識と技術をしっかりと身につけない限り創造的な表現には至らない、このような考え方は原が根づかせたものだろう。
 「直接役に立つ勉強などというものはいくらもあるものではない。概して迂遠で、ときには退屈なものが多い。しかしそういう勉強ができるのが学校というものだろう」「デザイナーになるための教養と、デザインにたどりつく方法までが、身につけられれば、それでいいとしなければならないだろう」と、機関誌『武蔵野美術』第23号(1957)の「各科の教育方針」の中で語っている。
 さらに、「本当のことをいうと、ぼく自身も、これだけのことを勉強すれば、一人前のデザイナーになれる、などということはわからない。デザイナーとして、日本人として、現代人として、どうしたらいいかいつも迷っている」とも語っている。

 私が武蔵美を選んだのも原が商業デザイン専攻(現視覚伝達デザイン学科)の主任教授だったからだ。受けた授業の回数は少ないが、一言一言に重みがあった。デザインに理論が直接表れることはないが、理論と思想形成がいかに大切かを教えられた。卒業後、印刷工房の助手として、教員として関わることになったが、この教えを忘れることはなかった。

 1970年に原が辞任した後も原イズムは残っていたように思う。直接学ぶことができなかったとしても、原がデザインした作品や著作から学ぶことも多い。直接、間接に関わらず原のデザイン思想が受け継がれてきた。学科の特徴もまた、長い時間の積み重ねの中で定着し継承されてきたものに他ならない。
 展示されている作品を通して、原が歩んだ道を間近で目にすることができる。あらためて学ぶことも多い。学生にとっても、原の20代の作品に触れることは大きな刺激になるに違いない。