スタシス・エイドリゲヴィチウス イメージ-記憶の表象

今井良朗

記憶の表象

スタシス・エイドリゲヴィチウスの作品を見ていくと、その時々に応じてさまざまな手法を用い、表現の形も一様でないことが分かる。けれども、そこには一貫して変わらないことと、変化していくものがある。変わらないのは、大きな意味でのテーマと思想、哲学であるが、背景にあるのは、社会と自己、身近な家族や人々に向けられる眼差しだろう。そして、描きたいという欲求、表現技法に対する貪欲な探究心が常にある。そのために、一つの表現様式や技法に固執することなく、次なるものを求め、現在も続いている。版画としての蔵書票(エクスリブリス)(註1)に始まり、写真、絵本、パステル画、ポスター、演劇などを手がけ、ここ最近は写真に夢中になっているという。
スタシスの頭の中には膨大なイメージが蓄えられている。スタシスは、リトアニアで過ごした児童期から思春期の記憶が、イメージの源になっていることを否定しない。「子ども時代に得たものはとても重要で、今に至るまでその蓄えで自らを養い、継続的に新たな子ども時代のカードをめくっています。それは時により遠くに、時により近くにあり、離れてみたり、その後戻ってみたり…」。(註2)というように、記憶を蘇らせることは、過去をただ再現することではない。時間の経過を伴う複数の記憶が蘇るごとに、さらに新たな記憶として再生産され編みこまれる。しかも、そこで想起するイメージは視覚像だけではない。声や音も、そして場所や見えないけれど心に留まり続けてきたものもある。スタシスがワルシャワのスタジオで唄ってくれた、リトアニア民謡もかけがえのない記憶の一つだろう。「民謡はどれも繊細なもので、歌詞の間に隠された含意を汲み取らなくてはならない。父がビールを飲みながら唄うのをよく聞いていたものだ。民謡が語る花々、愛、戦争、別離。それは灰色の空の風景に広がるリトアニアの霧のように、他にない色合いを持っている」、と語っている。(註3)
民謡はその土地の風土や文化的記憶の表象でもある。かつて唄っていた父親とその光景とともに、民謡から想起されることは、日々の暮らしのなかで感じてきた切なさや喜びなど複雑な想いである。スタシスが唄う民謡もまた、過去から現在を繋ぐ想起の対象であり続ける。
記憶は〈いま〉という〈とき〉の中に蘇り現在性を持つ。それは絶えず生き続けるものであり、社会と自己に向けられる変わることのない眼差しである。それらは長い時間をかけて蓄積されたさまざまな記憶の断片と集積であり、空間や時間、意味、さらには感情も含まれている。子どもの頃に過ごしたレプシェイ村の暮らし、いつも眺めていた草原や家、井戸のある光景、さらには両親や家族への想いである。スタシスにとって、記憶を辿ることは他者との関係、社会との関係のなかに自己を位置づけることである。しかも、現実の世界や出来事だけではなく、夢想する「別の世界」にも向けられる。
「生きることと忍耐を学んだ」というレプシェイ村は、スタシスが立ち返る場所であり、記憶を辿り表現するための原点であろう。決して楽ではない暮らしや社会的不安は、辛い記憶として残る。それでも、子どもの頃に過ごした日々は、両親や周りの人たちの愛情、家族とともに成長し生きた喜びとしても留まる。
記憶が生き続けいまに蘇るのは、〈いま〉の自らの生を認識することであり、未来に繋げているからである。スタシスは、蓄えられたイメージを取り出し、〈いま〉という地点から向き合い、かつての記憶を現在的なものとして表す。スタシスにとって、子どものころから見てきた光景や抱いてきた感情が、いかに今に繋がっているかが表われる。しかし、たびたび描かれる両親や家も、父親や母親であると同時に誰かであり、家はレプシェイ村で過ごした家でもあるが、その都度象徴化される記号でもある。スタシスの記憶は、レプシェイ村と結びついた私的なものである一方、リトアニア固有の土地、場所であるがゆえに、社会的で文化的な記憶としても残り続けるからだ。
スタシスの記憶には、歳月を超えた異なった時間や場所での経験、残された写真のイメージ、両親や妹、近所の人たちの言葉、民謡などが何層にも絡み合っている。さらに、思考や夢想、描き続けてきた痕跡も加わる。記憶とそこから想起するイメージが、いまに蘇り現在性を帯びるのは、精神活動や想像活動による複雑なプロセスによるものであり、表現行為を通してあらためて記憶を関係づけ編み直すからである。(註4)
スタシスの表現は、いかにリトアニアの記憶と結びついて言葉と形にしているかがうかがえる。だからといって、記憶そのものを再現し表現しようとしているわけではない。記憶は原点に立ち返るための手掛かりであり、〈いま・ここ〉で感じ取ること、表すことに集中する。そのとき、スタシス が語る「別の世界」「向こうの世界」も、感情を突き動かす重要な世界を成している。
「いつも『地球外生命』の世界に興味を持ち、いつも現実逃避していました。今でさえも、もし会話していなかったら、すぐに別の世界に行ってしまいます。何かがその世界で起きているのです」「私が向こうの世界で起こっていることや、自分自身で考えたことを美術に持ち込みたいとき、私は即座に、現実とその題材につながるのです。そして、すべて地上に持ってこなければなりません。技術と経験と知識が必要になります。よってこれらのすべての層が混ざり合うのです」。さらに現象についても語っている。「顔は『別の世界』には存在しません。むしろ、出来事やはっきりしない現象からなっているのです」。(註5)スタシスにとって、「別の世界」は現実とかけ離れた空想の空間ではない。現実の世界が本来持っている本質を深淵に見ることなのだろう。
スタシスにとっては、夢想する世界と現実を混合することはごく自然な行為といえよう。ところが、「別の世界」には顔は存在しないという。人間は「別の世界」に存在しない。スタシスが描く一貫したテーマである〈顔〉は、別の世界を投影した現実、あるいは、〈顔〉を通して見る「向こうの世界」にある現実、ということだろうか。〈顔〉あるいは〈マスク〉は、「別の世界」と現実世界の界面とみなせば、スタシスはどちらからも見ていることになるし、現実を眼差すスタシス自身にもなる。
子どものころからの記憶が編み込まれた感情は、目に見える世界だけでなく、見えないものも形にしていく、言葉では表せないことを絵として表現する。日常の世界と非日常的な世界が幾重にも織りなす空間こそスタシス独特の表現であり、人間と自然、物、動物などが絡み合う重層的な時空間をつくり出す。描きたい感情や欲望をメタファー(隠喩)やメトニミー(換喩)を駆使して表現することを楽しんでいるようでもある。

記憶を留める-ドローイング

スタシスは、「ドローイングは私にとって第一に、思考の探索を意味します。それは分析と感情の行為ですが、自分のなかで独自の価値を持つようになるのです。自分のなかにいるとき、人は美しくあろうとしたり、感じよく振舞おうとしたり、優美であろうとしたりしません。ただありのままの自分なのです。だからこそ私は、芸術的真実の多くはスケッチやドローイングにあると思っています」。(註6)
「すべての主題であるドローイングがあるから私は保っていられます。鉛筆とノートはいつも携帯しています」「自分のノートに戻るとき、すべてが目を覚まし、ゆっくりと思い出し、そして時には何年もかかり、あるものを実現させるのです」、と語る。(註7)スタシスにとって、ドローイングは記憶を留めたり、蘇らせたりするうえで大切な手法になっている。
スタシスのドローイングは、その場で感じ取ったことをそのまま描写するだけではない。一呼吸おいて感じ取ったことの記憶を辿り、時間をおいて描写するものも多い。ホテルの一室や劇場であったり、スタジオであったりと、描き始めるまでの時間は、数分のものもあれば数年を経るものもある。学校に通っていた頃からノートの端にはいつも絵が描かれていた、というように、ドローイングはスタシスの身体に馴染んだ日常的な手法であり、創作といかに深く関わってきたかが分かる。スタジオに保管されている膨大な量のスケッチブックやノート、手帖、メモ帖などは、スタシスにとって創作の源泉であり、歴史でもある。(図1・2)
その形状や大きさも様々で、革の装幀が施された手帖(註8)から大判のスケッチブック、手のひらに収まるほどのメモ帖まで、自在に使い分ける。しかも、スタシスにとっては、ドローイングに取り組む姿勢もまた一様ではない。その場の情動を留めるものから、思考の探索と夢想することを楽しむものまで多種多様である。自らもドローイングは、いくつかのグループに分けることができるという。
〈数秒ほどで描くドローイング〉は、その場で描き、数本の線を引くことで思考と動きを固定する。〈アイデアを探索し、分析するドローイング〉は、ポスターの制作のように、自らの感情と力を引き出し、言葉から解き放たれた記号を見つける。〈十分に考慮して描くドローイング〉は、描かれる線は旅であり、決定的な軌跡を残す。後戻りも変更もできないもの。〈色鉛筆のドローイング〉は、紙に触れる感触を喜ぶように色鉛筆は紙の上を彷徨い、踊り、色のついた痕跡を残していく、対話を楽しむもの。〈スケッチブックに描くドローイング〉は、異国に旅するごとに持っていくスケッチブック、実現してみたい様々なアイデアを描く。長い時間寝かせておくこともある。〈壁に直接、炭とパステルで描くドローイング〉は、パフォーマンスとして行うもの、を挙げている。(註9)
1994年からは、自らも「冒険の始まり」という絵入り日記に取り組んでいる。カンヴァスの表紙がついた40cm×33cm、200ページ重さ6kgの厚みのある大判のものだ。製本を特別に注文したというスケッチブック-ダイアリー・ブックは、1994年1月1日から始まり、2017年まで7冊が完成している。映画や演劇を鑑賞したとき、特別な出来事、制作のアイデアなど、その日のまとめとしてパステルで描いている。この大きな本は、1994 年4月、アメリカのカリフォルニア州レイクサイドに招かれた折に持参している。海外に出るとき、持ち歩くようになったのはこの時からである。(註10)(図3・4)
スタシスにとって、ノートやスケッチブックに描かれたドローイングは、新たなイメージを引き出すための素材でもある。一つひとつ独立したものであると同時に、ときを超えて関係づけられていく。たびたび表れる〈家〉や〈窓〉〈トランク〉〈鼻の長い少年〉〈マスク〉は、蓄積されたイメージを取り出し、繋ぎ合わせていくための主要な素材、記号として生き続ける。(図5・6・7)
スタシスのドローイングは、詩を書き表すようでもある。いまそこで見ているもの、あるいは見たものと記憶の断片が接合されていく。しかも、わずかな時間の中で抽象化され、記憶の断片と想起するイメージが紙の上に表れる。必ずしも脈絡のあるものではなく、イメージのコラージュとして視覚化される。言葉では明確に表せない、あるいは表したくないことを絵として描写する。ただ、思索する言葉が分離しているわけではない。直感的に浮かぶイメージと共に、ときには言葉も書き入れられる。文字もまた視覚化された像として捉えられる。思索の過程で、無意識のうちに対象が内包するもの、あるいは描きたいことの本質を見出そうとするのだろう。(図8・9)
表現するときのきっかけは、現実を観察すること、それとも想像することか、とのヴィェスワヴァ・ヴィェジホフスカの問いに対して、スタシスは応える。「両方です。それらは別々に分かれては存在しません。現実と私たちを取り囲むすべての不条理は、あるアイデアを思い出させ、一目で分かるように伝えてくれるのです。見るだけで十分なのです」と。(註11)表現されたものは非日常的でありながら、そこにあるのは日常そのものでもある。
ドローイングは完成を目指すものではないが、思考や感情がそのまま定着する。制約を受けずにありのままの感情が線として表れる。「私が最終的なイメージ像を持っているかどうかは重要ではないのです」「適切な色の配置や構成、すべてが特定の瞬間に生まれることを知っています」、(註12)というように、スタシスは、下絵や準備のための絵を意識しては描かない。思考と身体的記憶、身体的感覚をそのまま描き留める。その場で思い描くプロセス、創作過程を大切にする。そして、想像力をコラージュや構成に発展させることも楽しむ。スタシスのドローイングは、時代ごとにどれも特徴がある。素材も技法も表現の仕方も同じではなく、絵本やパステル画、ポスターなどその時代との関係性も見えてくる。ドローイングは、イメージを想起するプロセスの表れであり、独立した一つの表現としても魅力的なものになっている。

記憶を留める-写真

スタシスにとって、ドローイングは重要な表現手段であるが、一貫して写真に関心を持ち続けていることも注目すべきことだろう。ドローイングは、具体的な外観の像としては再現されない。その場で感じ取ったことをそのまま描写する場合も、記憶をたどり時間をおいて描写した場合でも、解釈や情動を伴った精神的活動の所産だからである。それに対して、写真は被写体を解釈することなく、一瞬の外観を保ったまま実像としてフィルムに定着する。
スタシスは、14歳の頃ソヴィエト製のカメラを手に入れ写真撮影を始めている。カメラは、スタシスにとってドローイングとともに、記憶を留め、想起していくための道具として手放せないものだ。ドローイングと写真の表現特性は異なったものである。そのまま実像が保たれ、残り続ける写真の特性に惹かれるのかもしれない。数十年を経ても、なお変化することのない被写体に記憶を重ねるとき、生きること、社会や自身に向けてきた眼差しの原点に立ち返るのだろう。
もっとも、ドローイングと同様に写真に対しても一つの方法論に囚われない。表現する写真として貪欲に挑み続ける。1970年代の写真と2000年以降に制作される写真は異なった様相を持っている。
1970年代前半の写真は、スタシスと写真の関係を見ていく上で興味深く、展覧会やスタシスの作品集にもしばしば登場する。カナウスにある美術学校に行くまで過ごしたレプシェイ村で撮影されたものである。
スタシスは1964年から1968年までカナウスの美術学校で、1968年から1973年までヴィリュニスの美術アカデミーで学んだ。展示されている写真は、ヴィリュニスからレプシェイ村の実家に帰ったときに撮影したものが大半を占める。その後、ポーランド・ワルシャワに移住後も帰郷の折に撮影している。被写体は実家の周辺と両親、妹、北側に住んでいたクリシュチューナイ家の3兄弟など、スタシスが過ごした家を中心に目にする光景を捉えていく。(図10・11)
スタシスにとって、写真を撮ることは見るものを留めていくことであり、同時にレプシェイ村で過ごした日々の記憶を重ねていくことでもある。そこには両親や周りの人々の経た時間も重なる。撮りためていくフィルムと写真は、イメージとして想起する記憶とはまた違うもう一つの記憶として残る。スタシスにとって、レプシェイ村で撮り続けた写真は想起の対象であり続ける。一枚一枚の写真は、その〈とき〉を留めたものであるが、背景に〈とき〉を刻んできた痕跡がある。しかも、数年を経て見る母親や父親の顔には、レプシェイ村固有の〈場所〉での日々の暮らしの営みが映し出される。
ロラン・バルトがいうように、写真は「かつてそこにあったということを決して否定できない」。過去のものであっても、現実的な痕跡として立ち現われる。その〈とき〉が、〈場所〉が存在したことを示す。写真は「消滅したものを復元することではなく、私が現に見ているものが確実に存在したということを保証してくれる点にある」からだ。(註13)
スタシスが繰り返しかつてのレプシェイ村と両親や家族の写真を引用するのは、現実にかつてあったことと現在を結びつけ、記憶とイメージを接合し、再現前化するからである。
バルトが語る写真は、母親の少女時代のものであるが、スタシスの写真は自ら撮影したものであり、その〈とき〉の自らの記憶も重なる。スタシスがそこに見出すのは、かつての現実だけではなく、その後、離れていても共に生きた痕跡や想いも含まれる。
バルトは、母親の写真との関係性について、「愛の苦悩」「豊かな感情のうねり」と表現し、「現実を擦り写にした狂気の映像」ともいった。写真によって呼び覚まされる情動は、愛する人の肉体や顔であるがゆえに苦悩に満ちたものにもなる。「私の気違いじみた欲求に対して、ただ何とも言い表しようのないあるものによって応えることしかできないから」である。(註14)
スタシスがかつての写真に向ける眼差しは、生きてきたことの現実的な証と、写真によって呼び覚まされる両親や人間への愛情、生きることの不条理を確認することだろう。しかも、かつての写真を一枚一枚取り出すたびに、複数の写真が組み合わされ、結びつけられ、時空を超えて物語性を帯びる。そして、記憶の再現前化、想起するイメージとして表現に向かわせる。スタシスにとって、写真は記録であり、表現でもあるが、新たな表現に向かわせる媒介物でもある。
スタシスにとって、レプシェイ村とその写真は、立ち返る原点であると同時に、消えることのない呪縛としても生き続けるのだろう。
当時の写真を通して見えてくるもう一つの特徴がある、肖像のとらえ方である。顔そのもの、それもフレームいっぱいに収められたものが多く見られることである。スタシスにとって、〈顔〉はその後一貫して重要なテーマになるが、家族や近しい人々への愛情とともに、すでに、人間と象徴するものとしての〈顔〉に関心が向けられている。写真Father with a cap(図12)は、父親その人であるが、そこに現れるものがすべてではない。むしろ、父親がカメラに向ける眼差しは、その〈とき〉の所作である。しかも、写真にはファインダーを覗く者の眼差しが介入する。スタシスは、父親の自然な表情を撮影するというよりは、しっかりと向き合って撮影しているように見える。フレームいっぱいに顔を収めることで、余分なものを削ぎ落とし、〈顔〉を浮かびあがらせている。
父親の写真はある表情しか持たないが、スタシスはさまざまな表情を持った父親を知っている。あらためて父親の写真を見るとき、さまざまな表情が記憶としても蘇るはずだ。写真の父親もまたスタシスを見つめる。視線がぶつかったとき「豊かな感情のうねり」が起こり、〈顔〉から何かが立ち現れる。写真が持っている特徴である。写真を通して見つめていった〈顔〉から、内面と外面、さらには〈顔〉の向こう側を見つめていったのだろう。〈顔〉はその人を代表するわけではない。むしろ、〈顔〉と結びつく身体や背景にあるものこそ、スタシスが見つめようとしたものだろう。写真のなかに見いだすメタファーが、ドローイングとして、絵として独特の〈顔〉になっていく。個別の人格を持った〈顔〉がペルソナになっていったとしても不思議なことではない。

メディアを引き寄せる

2000年以降、スタシスは再び写真による作品を多く手がけるようになった。70年代の写真が私的な背景を持っていたとすれば、演劇から始まったというこれらの大判写真は、創作された写真作品である。
裸の男性と紙や木、金属、革などのオブジェ、そしてマスクをまとったものもある。身体を強く意識した、あたかも舞台で演じているような構成である。それまでの創作や、さまざまなメディアに傾注してきた姿勢を考慮すればうなずける。それも、ドローイング、写真、パステル画、パフォーマンス、演劇と辿ってきたさまざまな表現と関係づけられている。それまで描いてきたマスクやピノキオの鼻が生身の身体と出会ったとき、それらは新たな意味を帯び写真表現に昇華されていった。それは近年取り組んできたパフォーマンスや演劇とも通底する。(図13・14)
しかし、舞台から切り離された写真は独立して物質性を帯びる。木や金属などのオブジェは人間に付随するものではなく、マスクで顔を覆った人間もまたオブジェ化する。単体では物は物でしかなく、それだけでは意味をまとわない。ところが、裸体が個性を剥ぎ取られることによって、人間の物に対する優位性が壊れる。スタシスは、そのことに触れるように「人間が使う机や椅子や家のような最も単純な物だけに私は興味があります」「人と物との結びつきは生まれたときから存在しています」「物なしで生活することは出来ません」「物は何世紀も存在することが出来ます。私たちは物の存在の中では、訪問者なのです」と語っている。(註15)
スタシスにとって、物は人間が支配するものではない。物質として語りかけてくる写真は、観るものの感情を揺さぶる。スタシスが何かを語るというよりは、観るものが語りかけることを促すようでもある。異質な物と人の組み合わせによる写真は、観るものとの関係を意識した新たな冒険であろう。ドローイングやパステル画が持ち得なかった世界である。
スタシスは、その時々に応じてさまざまな表現技法を使用する。違う技法に移行していくことについて、スタシスはこう語っている。「何かを十分に語ってしまったと感じたら、その制作をやめます」「例えばエクスリブリスですね」「もっとも、人生自体が作風に変化をもたらすこともあります」。さらに「物質そのものが私を何か新しいものが生まれるところまで導いたのです。私はそれを触りたいという誘惑に駆られます。そして、状況が許す限り、それをするのです」ともいう。(註16)
表現に対するテーマや思想、哲学は変わらないが、技法やメディアは変化してきた。創作の源泉となるドローイングですらも、自らも分類したように、幾つかの方法論で成り立っている。また違った観点から見れば、すべての作品がドローイングに向かう姿勢や方法論の延長線上にあるようにも見える。さしずめ大判の写真は、〈アイデアを探索し、分析するドローイング〉であり、旅先で描いた〈スケッチブックに描くドローイング〉のアイデアを反映したものであろう。
2000年以降の写真表現技術や方法、表し方は、1970年代の写真と明らかに異なるものであるが、70年代、すでにその後に繋がっていく実験を試みている。写真作品Mum and dad, Two feet of two brothers(図15・16)は、フォト・モンタージュによるものだが、ダダやシュルレアリスムに関心を持っていた、学生時代の実験的な表現の痕跡を垣間見ることができる。
1960年代に活躍したイメージ派と呼ばれる写真家、ジェリー・N・ユルズマン(註17)のフォト・モンタージュと同様の技術的な試みも見られる。デジタル写真と異なり、フィルムの現像から印画紙への焼き付けに至る工程は、暗室での作業であり、高度な技術を要した。一定の時間を要する暗室での作業は、撮影時の環境とは異なる異質な空間である。現像液に浸された印画紙から徐々に現れる画像は、ファインダーから覗く対象とは別の世界として現れる。蔵書票を制作していた時期にも、並行して写真の特性や芸術性について考察していたことがうかがえる。
コラージュやフォト・モンタージュは、写真や印刷物などを組み合わせることによって比喩や象徴性を際だたせる。断片化と接合の過程で、かつて感じたことを蘇らせ、強化したり削除したりする。同時に頭の中に蓄えられたイメージを取り出し関係づけ、新たな意味を引き出す。コラージュやフォト・モンタージュとそれに付随する思想は、スタシスにとって、当時刺激的な方法論だったにちがいない。創作のプロセスが重要な意味を持ち、スタシスのその後の創作における主要な手法になっていった。さまざまな物質を組み合わせる、人間と物質を接合させるなど、異質なものを組み合わせることで生じる独創的な空間こそ、スタシスの際だった表現の特徴だからである。
あらためて、1970年から1980年、ポーランドに移住するまでの10年間の創作を見てみよう。カナウスの美術学校で始めた版画による蔵書票は、書物の所有者と直接結びついている。蔵書票に名前を書き入れながら、人間について考えるようになったという。1974年の兵役は、「不条理な塀のなかでの暮らしによって、私の芸術は形而上学とメタファーへと導かれていった」と述懐する。(註18)手のひらで隠して描いた小さな絵は、細密画に発展する。自由に描くことへの願望と創作の目的が明確になっていった時期である。兵役を終えた後、蔵書票、細密画の制作とともに、本のイラストレーションの仕事をするようになる。絵本は複数の画面で成り立っている。複数の空間と連続する時間の表現は、スタシスに新たな方向性をもたらした。それは言葉と絵による物語性であり、寓意と象徴は、描きたいものの本質を表すのに適していた。スタシスはリトアニア時代に十数冊の絵本を手がけるが、コラージュとモンタージュの思考は絵本に生かされていった。(図17・18・19)
このように見ていくと、すべての作品が関係づけられ次に繋がっている。リトアニアからポーランドに移住するまでの10年ほどの時期は、スタシスの創作活動を方向づけ、醸成していくための揺籃期であり、重要な時期だったといえるだろう。
1984年以降、スタシス独特のパステルによるコラージュの世界が開け、ポーランドを代表するポスター作家の地位が確立した。ポスター制作では、鑑賞者との対話、コミュニケーションの空間をより意識することになる。空間に対する意識は、彫刻や舞台、パフォーマンスがそうであるように、立体的で動的な方向に向かわせた。スタシスにとって、空間は観るものと自分自身を繋ぐ重要な〈場〉になっていったのである。
スタシスは、ワルシャワ・ポスター・ヴィエンナーレを通じて、日本のデザイナーとも親交がある。親交の深かった田中一光は、スタシスの作品を「このようなメタモルフォーゼは見る者を驚かせ、怖れさせる。リトアニアの土とワルシャワの風を混ぜ合わせ、恥じらいながら、おどろおどろしく、私たちを挑発する。独創性と感受性を備えたその世界観は、自ら私に語りかけてきたのである。」と評した。(註19)
「リトアニアの土とワルシャワの風」は、スタシス自身も自分の芸術を的確に捉えているという。アメリカ・ミシガン大学での個展タイトルにも使用したほどだ。リトアニアで培った世界観と表現思想、技術がワルシャワで花開き、ポーランドを代表する作家になった。それでもなお、新たな〈場〉を求めて飽くなき旅を続けている。(図20)

(註1)蔵書票は、ヴィリニュス美術アカデミーに在学する頃から本格的に制作するようになった。1970年に学内のエクスリブリス展に出品したのを皮切りに、国内のエクスリブリス・ビエンナーレに毎回出品。1975年にエクスリブリス・ビエンナーレで入賞し、批評家やコレクターの注目を浴びるようになった。
(註2)ヴィェスワヴァ・ヴィェジホフスカのインタビューから。STASYS 50 A Retrospective Eidrigevicius, IRSA, Cracow, 1999
(註3)STASYS 60, by ABE Dom Wydawniczy, 2011, text Monika Kuc, 2010
(註4)『記憶の場』第1巻、ピエール・ノラ、谷川稔(監訳)岩波書店、2002。『想起の空間 文化的記憶の形態と変遷』アライダ・アスマン、安川晴基(訳)水声社、2007は、いずれも歴史と記憶について論じているものだが、記憶の想起を考えていく上で多くの示唆を与えてくれる。
(註5)ズビグニエフ・タラニエンコのインタビューから。STASYS 50 A Retrospective Eidrigevicius, IRSA, Cracow, 1999
(註6)STASYS 60, by ABE Dom Wydawniczy, 2011, interview Monika Kuc, 2010
(註7)ヴィェスワヴァ・ヴィェジホフスカのインタビューから。STASYS 50 A Retrospective Eidrigevicius, IRSA, Cracow, 1999
(註8)スタシスは、カナウスの美術学校で皮革装飾デザインを専攻したこともあり、特別に注文したものなど革の装丁への愛着も強い。
(註9)モニカ・クッツのインタビューから。STASYS 60, by ABE Dom Wydawniczy, 2011, interview Monika Kuc, 2010
(註10)1994年の1冊目から拾ってみると、1月4日…アニャが私の顔の型を取った。1月8日…クリスマスツリーを処分した。1月 12日…ペドロ・アルモドバル監督『欲望の法則』を見た。1月16日…著名な歌手であるニェメン を訪ねた。1月21日…94 歳の老人に道を渡らせようとした。1月26日…ドキュメンタリー映画『ブレジネフの娘は酔いどれて』 をテレビで見た。1月28日…ワルシャワ国立美術館「アルス・エロティカ」展のオープニング。1月31日…東京の立川市に制作する予定の、金属製の像の計画。などと続く。
(註11)ヴィェスワヴァ・ヴィェジホフスカのインタビューから。STASYS 50 A Retrospective Eidrigevicius, IRSA, Cracow, 1999
(註12)前掲書
(註13)『明るい部屋 写真についての覚書』ロラン・バルト著、花輪光訳、みすず書房、1985年
(註14)前掲書
(註15)ズビグニエフ・タラニエンコのインタビューから。STASYS 50 A Retrospective Eidrigevicius, IRSA, Cracow, 1999
(註16)前掲書
(註17)ジェリー・N・ユルズマン(Jerry・N・Uelsmann)は、1934年生まれのアメリカの写真家。60年代に活躍した。複数のネガを合成して幻想的で絵画的な写真を制作した。暗室でのモンタージュ技術は精巧を極め、加工することを前提にした写真の世界を切り拓いた。
(註18)モニカ・クッツのインタビューから。STASYS 60, by ABE Dom Wydawniczy, 2011, text Monika Kuc, 2010
(註19)この言葉は、田中一光が亡くなる前日、2002年1月9日に遺した言葉である。この年のヴィラヌフ・ポスター美術館(ワルシャワ)での展覧会カタログに掲載された。

スタシス・エイドリゲヴィチウス イメージ-記憶の表象

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