立春、雨水を過ぎ、春一番が吹くと春めいてくる。早朝はまだまだ寒い日もあるが、昼間の陽気は心地いい。といっても、ここ数年はいきなり冬に戻ることもあり、季節感も曖昧になってきた。それでも、立春にはじまり、雨水、春分と二十四節気が使われ、生活の中にこのようなことばが生きていることを実感できるのは嬉しい。一年を二十四で区切り、季節の変化に合わせてそれぞれに付けられた名称は、人々の暮らしと自然が密接に繋がっていたからだ。一つのことばから派生し、人とものやことが繋がる。労働や暮らし、まつりなど、生きていくための知恵として共有されていた。
太陽暦を基にした同じようなことが、古代から世界中に見られるのも共通している。ものや行為、出来事に名前を付け、それぞれを関連づけることによって概念を共有してきた。厳しい自然と対峙し、人間が集団社会を形成し、安定した秩序あるものにしていくために、ことばによるコミュニケーションを必要としたからだろう。ことばを通して自然や世界に触れ、感じ取り、考える力を身につけてきた。むろん、そこには視覚的な言語も含まれる。ことばを超えた世界や美的感受性は、芸術表現を生んだ。歴史を振り返れば、すべては人間社会を基盤にしてつくり出されてきたものだ。神の視点が定められてきたのも自らを戒めるためだろう。
「日に日に世界が悪くなる 気のせいかそうじゃない そんなじゃダメだと焦ったり」NHKの朝ドラ「ばけばけ」のオープニングで流れる一節だ。この歌詞にどのような日常を重ねるかによって、見える世界が変わってくる。大きく変わろうとする世界なのか、たわいない身近なことなのか、どちらにしても人間社会に関わることと重ねるだろう。
身体機能の拡張の歴史は、さまざまな道具や機械をつくり出したが、人間的なものの基盤に基づいていた。いずれAIは感情や感受性も持つだろうといわれている。人間的な視点の向こう側にあるのはどのようなものなのか、いつか予測しない形で超えていくのか、はたまた、人間的なものの鏡なのか、想像することが難しい。人間にとって、ことばはどこに向かっていくのか、語り継がれてきた生活の知恵や戒めは、どのような形で残っていくのか、考えてしまう。
