1960年代のグラフィック・デザインと小劇場ポスター

今井良朗

1960年東京世界デザイン会議以後

1960(昭和35)年、日本で初めての世界デザイン会議が東京で開催された。27カ国が参加、海外84名、国内143名が出席した。出席者は、建築家、デザイナー、評論家、教育者など多方面の分野にわたった。日本のデザイン界は、啓蒙期から新たな時代を迎え、初めて国際社会での共通の基盤に立ってデザインの問題が語られた。折しも日米新安保条約が強行採決されたときである。デザインの社会的機能、役割が問われ、日本のデザイナーは、産業や商業的側面以外の多様なデザインの分野を目の当たりに知らされた。それは、グラフィック・デザインからヴィジュアル・コミュニケーション・デザインへの広がりであり、デザイナーは、新たな可能性を感じ取っていた。
1960(昭和35)年の第10回日宣美(日本宣伝美術会)展は、デザイン会議とともに安保闘争の高揚と挫折という時代状況を反映していた。学生を中心にした若い世代から新しい傾向の作品が出品された。パネルキャンペーンの手法による極めてメッセージ性の強い表現が特徴で、個人的作家性を否定したグループ制作も目だった。日宣美賞は、小森駿一郎、森啓、斉藤充の合作によるパネルキャンペーン『科学技術と人間生活』が受賞し、社会的なテーマを扱った小谷育弘の『ロッキード取りやめの日』が入賞している。
世界デザイン会議を契機に日本のデザインは、多様な広がりを見せはじめ、思想的にも大きく転換しはじめた。しかし一方では、大半のデザイナーは、高度経済成長とともに肥大し続ける広告の世界やコマーシャリズムに安住した。
日宣美は、1960(昭和35)年を境に下降線をたどり始める。新しい傾向の作品も徐々に影を潜め、若い応募者は、相変わらず日宣美の体質に合わせることに懸命になり、前年度の作品を追随、模倣していく傾向が目立った。デザインの可能性、ひろがりや実験よりも日宣美での受賞がもたらすスター作家としての可能性を求めた。当然、作品のメッセージや造形の思想よりも色彩の美学や構成の美学が意味を持った。すでに日宣美は、サロン化した画壇同様マンネリズムに陥りつつあった。
それでも日本のグラフィック・デザインは、活況だった。経済成長、広告需要の高まりに合わせて、コマーシャルポスターの制作量も膨大なものになっていった。表現もイラストレーションから写真が主流になり、それに伴って集団的な制作システム、アート・ディレクション・システムが広告界に定着した。また、世界デザイン会議を契機に明らかにグラフィック・デザインの領域は広がりを見せた。タイポグラフィ、エディトリアル・デザイン、ピクトグラム、ダイアグラム、サイン・シンボル、イラストレーションなどに新しい造形の思想と原理の追求が試みられた。これは、新たな欧米デザインの思想、技術の日本的定着を試みる動きでもあった。
戦後日本のデザインは、近代デザイン=モダン・スタイルを目指し、バウハウスなどの影響を基盤に、戦前準備された方法論や手法を一気に開花させてきた。啓蒙的な役割を担ったのは、原弘、河野鷹思、亀倉雄策、伊藤憲治、早川良雄、大橋正、山城隆一らである。その表現は、抽象化されたシンプルな造形と構成的な表現性を持ち、極めて洗練されたものに消化されていった。日用の器具や生活品を中心に展開されてきたグッド・デザイン運動とも無縁ではなく、背景には、近代的社会の中に世界共通のデザインのスタンダードを求める姿勢があった。こうした普遍的な美を追求したデザインは、戦後日本のグラフィック・デザインを方向づけてきた。
このような美学は、伝統的なもの、土着的なものを否定するところから出発してきた。もっとも、日本的、伝統的表現に対する意識が全くなかったわけではない。50年代後半には、海外からの評価を受けて、敗戦直後封建的と見なされ否定された、民族意識や伝統意識が再認識され日本調ブームが、建築、クラフト、グラフィック、すべての分野に広がっている。
グラフィック・デザインでは、日本的な形や色彩を伝統的な工芸や装飾文様の中に求めた。戦前から思考されてきたモダン・デザイン指向が、伝統と近代を折衷させた様式としての造形美をつくりあげていったのである。日本的なモダニズムをより鮮明に示した早川良雄をはじめ河野鷹思、亀倉雄策、大橋正らがそれぞれ独自の表現スタイルを確立していく。
いずれにしても、日本のグラフィック・デザインは、一方で日本的モダニズムを形成しつつも、総じて欧米の影響の中にあり、思想的にも様式的にも一貫してモダン・デザインを追求する姿勢は変わらなかった。グッド・デザインは、一つの基準であり、単純明快で余分なものを取り除いた無装飾な美学は、モダニズムの典型的な表現スタイルと見なされた。
インターナショナル・スタンダードの前には、日本的伝統や土着性は、副次的なものでしかなかったのかもしれない。この考え方は、デザイン教育にも反映され、機能的、合理的デザイン思考は、後に、個の開放、失われた情念の回復という形で、若い層から対決を迫られることになる。
一方、1930年前後生まれの戦後派第二世代は、それぞれ固有の表現手法をさらに発展させ、グラフィック・デザイナーとしての基盤を着実に確立させつつあった。
1965年に開催された「ペルソナ展」は、第一世代に続く第二世代の存在を強くアピールする結果となった。メンバーは、粟津潔、宇野亜喜良、片山利弘、勝井三雄、木村恒久、田中一光、永井一正、福田繁雄、細谷巌、横尾忠則、和田誠の11人が参加。デザイナーが匿名性ではなく、まさに“ペルソナ”として固有の顔を持つことを主張した。これは、コマーシャル・ポスターの世界での集団的な制作システムとの差異を明確にするものであり、ポスターが作家と常に一体的関係にあること、個人の表現に支えられるものであることを前面に打ち出すものだった。
このような姿勢は、ポスターのグラフィック・アートとしての面も浮き彫りにすることになり、その後の日本のポスターをよい面でも悪い面でも、二つの流れを作り出していくことになった。
(図1、図2、図3、図4)
1960年代後半は、繁栄の一方で深刻な大気汚染や企業による公害が社会問題化しはじめた時期である。近代社会がつくり上げてきたもの、その結果生じた人間社会の構造や、秩序に全面的に依拠できないのではないかという危惧や疑問が芽生えはじめていた。
生産体系がより社会的で、社会全体が、“もの”を創り出すところに基盤がある社会では、個人としての存在感が社会的には弱められる傾向を持っている。豊かさと疎外感という、二元的な傾向が現れはじめたのである。豊かな生活が必ずしも快適な環境をもたらすわけではない、ということが意識されはじめたのである。
戦後、グッド・デザイン運動は、物の乏しい時代に、良質の日用生活品を量産によって普及させようとの考え方からスタートした。デザインの規範を欧米に求め、啓蒙的な役割を果たしてきた。そこではまず、それぞれが個別にしろ、良質の“もの”をより安く多くの人々に定着させる必要があった。まさに、“良いデザインは、よい環境をつくりだす”ことだった。
しかし、戦後20年を経て、良質の“もの”の生産と総和が、良い生活環境、良いデザイン環境を生むという仮定は、必ずしも成り立たなくなってきていたのである。
生産され続ける“もの”と“もの”のシステム化が有効性を持つ物質社会がもたらした均一化、没個性化は、崩壊しはじめた個をいかに確認し開放させるのかという問題として投げ掛けられていた。

運動としてのポスター

1960年代半ば以降、さまざまな分野で若い世代の不満が噴き出しはじめた。背景には、政治に対する不信感、繁栄の推進とともにに意図的につくりだされた大衆文化状況への疑念が働いていた。政治的、社会的変革への情熱とともに、戦後形成された芸術・文化に対する批判と変革を求める動きが一気に高まっていったのである。
戦後アメリカによってもたらされた物質文明を中心にした近代化、アメリカン・ライフ・スタイル、そのためには、前近代的なものをすべて否定してきた価値観への疑い、批判であり、新しい価値や思想、文化を見い出していこうとするものだった。与えられた文化ではなく自前の文化を思考し、知識人の所産としての文化から、若者が自ら自立的に文化を創造しようとする試みだった。
カウンター・カルチャーと変革への動きは、アメリカ、ヨーロッパ、日本など連鎖反応として巻き起こった世界同時発生的な出来事でもあった。
演劇、映画、劇画、グラフィック・デザインの分野でも、若い世代を中心に既成の枠を打ち破る新しい傾向が台頭した。なかでも、アングラ演劇と総称された小劇場運動は、大きな盛り上がりを見せ、唐十郎らの状況劇場、鈴木忠志、別役実らの早稲田小劇場、佐藤信、串田和美らの自由劇場、寺山修司らの天井桟敷、蜷川幸雄らの現代人劇場、太田省吾らの転形劇場などが次々に登場した。
これら小劇場運動の担い手達は、いずれも1960年安保闘争世代で、日本共産党系のイデオロギーが強かった新劇から演劇を解放することをめざし、反日共系の新左翼の立脚点に共鳴した。ただ、彼らにとっては政治的革命といったイデオロギー闘争よりも、むしろイデオロギーにとらわれない、前衛としての文化運動の延長線上に演劇運動をとらえていたといえるだろう。
このような小劇場運動の活動は、脱近代、反権力を指向する若い世代に圧倒的に指示された。小劇場運動の求心的エネルギーは、結果的に多くの若いエネルギーを巻き込んでいくことになるが、グラフィックの分野も例外ではなかった。前衛演劇にふさわしいポスターが若いデザイナーによって次々と作り出されていった。
ここでは、日宣美の権威も戦後モダン・デザインも無縁だった。むしろ、小劇場の演劇が積極的に取り上げた前近代性、すなわち、明治以来近代化の名の基に排除し続けてきた土俗的なものだ。土着的なものの中に含まれる大衆のエネルギーを、グラフィックの中でも読み取ろうとしていた。
横尾忠則、粟津潔、宇野亜喜良、平野甲賀、及部克人、串田光弘らによって制作されたポスターは、単なる告知的機能を超えて演劇と一体的関係を持ち、共有するイメージをメッセージとして視覚化しようとしていた。
中でも横尾忠則が小劇場運動の前衛性に共鳴し手掛けたポスターは、際立って個性的な表現を持ち、とりわけ異彩を放った。状況劇場のために制作された『腰巻お仙一忘却篇』、『ジョン・シルバー』、『由比正雪』、『続ジョン・シルバー』では、それまでの日本のポスターが持たなかった全く新しい表現世界を提示して見せた。『腰巻お仙一忘却篇』、『由比正雪』では、舞台が構成されていくのと同様に、文字や表現要素があたかも舞台の時空間を形成するかのように、異なった時間、異なった空間を重層的に配置し構成している。ポスターもまた舞台なのである。
扱われるモチーフは、空飛ぶ裸の女、舌を出した口、新幹線など現代のものと、朝日、波、桃などの伝統的な文様が折衷され、けばけばしい色彩とあわせていかにもポップな印象を与える。
しかし、このポスターには、ポップである以上に江戸末期から明治にかけて、引き札や絵びらに見られる表現を連想させる。異なった時空間を複雑に重ね合わせていく構成、原色を多用した色彩、絵の中をめくって異なった空間の絵を多層的に見せる手法等などである。引き札や絵びらに描かれたあっけらかんとした大衆のユーモアと、虚実入り交じった日常空間がそこには垣間見える。そもそも日常性など、それほどシンプルなものでもなく、秩序だったものではない。むしろ雑多な空間であり混とんとした場でもある。そんな現実を横尾は現代に蘇らせたともいえるだろう。 (図5、図6)
横尾の中にすでに生じていたモダニズムへの懐疑が、小劇場運動、前衛芸術との接触によって、はっきりと方向を見定めたようにも見える。これらの作品を境に、横尾は、グッド・デザイン、モダン・デザインに背を向けていく。横尾にとって自らの原風景は、モダン・デザインではなく、幼少期、少年期に眼に焼き付いた雑多なラベル、チラシや絵看板類であり、土俗的な大衆文化が生み出した表象と結びついていた。横尾は、自らの歴史と現実に逆らうことなく、自己の中に意識されるもの、イメージされるもの、そのままの姿を表現しようとした。
「人間の内面の描写に、現代のイラストレーションの存在性があり、ここからイラストレーションの装飾化を避け、意識の深層を表出させることにより情念が新しく意味を持ってくる」と語っているように、横尾のイラストレーションは、個人の中に醸成されるイメージに支配されながら、一方で、個人の発想を超えた人間や社会全体が内包する欲望や情念の世界をあらわにする。高い自立性を持った個の表現であると同時に社会そのもの、大衆の潜在的エネルギーの表現でもある。横尾は、横尾なりの視点から日常の呪術的空間を切り取り、その断面を提示しようとしていた。
横尾の登場は、若者に熱い支持を受けるとともに考え方の面でも刺激を与えた。デザイン学生は、商業主義にすっかり取り込まれてしまったグラフィック・デザインの現実と、そのための技術教育、さらに理論面では、徹底したモダン・デザインの原理追求や機能の追求に疑問を抱きはじめていた。
グラフィック・デザインとは何か、社会的役割とは、といった素朴な問いかけがそこにはあった。デザインを単なる“もの”のデザインとしてとらえるのではなく、行為としてのデザイン、プロセスを重視した運動体としてのデザインの構築を提起しようとしていたのである。
このような機運は、全国の大学に高まりつつあった教育改革、民主化を求める声と政治批判、社会批判と重なり合うものだった。1968年に入ると、全国の大学に学生の活動組織が結成され、100校以上が紛争状態にあった。
美術大学のデザイン系の学生を中心に結成された「日宣美粉砕共闘」は、1969年8月、第19回日宣美展の審査会場に乱入し、日宣美粉砕、審査中止を叫んだ。日宣美は、結成から19年を迎え、60年以降停滞とマンネリを指摘されながらも新人の登竜門として機能してきた。しかし、近代合理主義に守られて美術権力と化した日宣美は権威主義を生み出すだけだと、鋭く批判されたのである。この年の日宣美展は、事実上開催が不可能となり中止された。その後日宣美内部では、頻繁に討論が重ねられたが、世代間の考え方の違いは埋まることなく、明確な回答を打ち出せないまま解散論が多数を占め、1970年、日宣美は解散を発表した。
日宣美の解散は、戦後日本の近代デザインにおけるひとつの時代の終焉を意味した。60年代末は、あらゆる分野で敗戦後日本が抱えてきた矛盾を一気に浮上させることになった。
グラフィック・デザインの分野でも、旧世代と新世代間の思考のずれが明確になる一方、量的には圧倒する広告分野でのディレクター・システムの成熟による集団による制作と、ポスターを1枚の作品、タブローとしてとらえ続ける旧世代デザイナーとの認識の違いも顕在化していた。
戦後日本の転換点とも言える1970年、大阪で日本万国博覧会が開催された。この博覧会は、主要なデザイナーや建築家をことごとく巻き込んだ巨大なプロジェクトとして進められた。異分野との接触と共同による可能性を見い出そうとしたデザイナー達は、若者の万博に対する批判を意識しつつも、新しいテクノロジーとの融合、次代を中心的に担うデザインの役割に期待を寄せた。若者の叛乱に共感し声援を送った若いデザイナーの多くもこの万博に参加している。
しかし、終わってみれば、国家政策、強大な資本主義の制度の前には、ひとつの歯車であり、大半のデザイナーは小さな存在でしかありえないことを知らされる結果となった。粟津潔もまた、シンポジウム「EXPOSE ’68」や日宣美批判との関係において、あらためて万博批判を深く受け止めざるを得なかった。 (図7)
全国に展開した学生運動は、全学連の分裂と対立、政治的イデオロギーへの急激な傾斜、活動の過激化等によって、実質的に運動を支えてきた一般学生が離散、追い撃ちをかけるように警察の徹底した弾圧を受け敗北に至った。6,422万人という万博史上最高の入場者を動員した大阪万国博の熱気を頂点に、60年代末を盛り上げたさまざまな運動とエネルギーは、拡散し、鎮静していった。
演劇では、1970年代に入ってからのつかこうへいの登場とつかこうへい演劇の人気が時代を象徴していた。状況劇場、天井桟敷、演劇センター68/71などが運動を地道に継続させていく一方で、つかの演劇は、笑いをともなった「喜劇」の方向に転換させた。ポスターは、和田誠が担当し、明るく軽妙なイラストレーションがつかの演劇とよくマッチし、70年代という時代の気分をよく反映していた。戦前の大衆のグラフィズムに接点を置く、平野甲賀の力強いイラストレーションと書き文字によるポスターとは対照的だった。 (図8、図9)

「1960年代のグラフィック・デザインと小劇場ポスター」『サイバーミュージアム-戦後デザインの検証』インターネット上に公開 武蔵野美術大学美術資料図書館 1998年2月

1960年代のグラフィック・デザインと小劇場ポスター