絵本の時間性

今井 良朗

テレビに親しみ、コンピュータ・ゲームに熱中する現代の子どもたちは、時間に対する感覚が昔とは比べ物にならないほど速くなってきています。時間には物理的な時間と体感時間がありますが、映画など映像は、通常の時間の五倍くらいの感覚でつくられているといわれています。そうしないと退屈してしまうからです。そして、スピルバーグに代表されるような最近の映画では、さらにアップテンポに展開し、7〜8倍くらいの感覚でつくられています。これはコンピュータ・ゲームも同じです。
私たちは、いつの間にか時間との関係が恐ろしく速いところで生活しているようです。このような目まぐるしい時代になればなるほど、生活の中での時間のコントロールがますます難しくなり、ゆっくりものを見たり考えたりすることもままならなくなっていくでしょう。
私は、これまで以上に絵本の重要性を感じています。映像とはまた違った絵本の持つ独特の時間性が子どもには大切だと思うからです。
絵本と映像の一番大きな相違点は、時間をコントロールする主体です。絵本の場合、時間を自分でコントロールしながら頁をめくり、その中で物語を楽しんでいくことができます。5分で読む人もいれば、1時間かける人もいます。その違いがとても重要なのです。
表現の上でも映像の場合には作り手に主体があります。何かを追いかけて見ていく場合でも、カメラがクローズアップしていったり、場面転換したりと作り手の論理で全体が流れていきます。作り手の視点をそのまま代理的に受け入れているという関係です。見るということは自分の目で選択して見ていくわけですが、映像はそうではなく、作り手が誘導しそれをある意味で打ち消していきます。当然、見る側は受け身にならざるをえません。
それに対して絵本は、作り手側の演出や編集という概念は同じでも、個々の絵を選択し時間を追って見ていく関係は、読み手側にあります。これは大きな違いです。
例えば安野光雅の『旅の絵本』、この絵本は読み手と描かれた世界との関係が自在で、時間のコントロールが読む人によって大きく変わる代表的な絵本でしょう。ゆったりとした時間の中で見ていくことによって世界を限りなく広げていくことが可能です。一つの画面の中には何十人もの人が描かれていて、仕事をしている人、遊んでいる子どもなど一人ひとりの日常の営みがすべて描かれています。これを全体として見ていくことも可能ですが、一人ひとりの営みから自分なりに感じたり考えたりすることもできます。1頁を十分時間をかけて見ていく人もいるでしょう。自分の世界と、物語をだぶらせながらイメージを作り上げていくことも可能です。このような自在性こそ絵本が持っている大きな特性といえるでしょう。よい絵本といわれるものは読者との距離が考えられて作られています、その中で対話性を大切にしています。そして時間が重要な役割を果たしているのです。
もちろんここでは、絵本の優位性をいったり、映像を否定しているわけではありません。個々のメディアにはそれぞれ特性があり、その特性によって表現が成り立っているのです。私たちは、そのことをもっと理解する必要があるのだと思います。
その点からいえば、コンピュータ・メディアが日常化したことで、これまでのメディアの本質や特性を、利用する側の視点から改めて考える機会ができたようにも思います。表現とコミュニケーションの関係を日常的な知覚や認識の行為に近づける発想です。コンピュータによる表現は、これまでとは違った全く新しい可能性を持っていることは確かです。例えば作り手側の論理が支配していた映像と比べると、コンピュータはこれまでのメディアとはまったく異なった時間や空間を表現します。時間や空間を自在に組み換えながら取り出して見ることもできます。絵本とはまた異なった対話性にも富んでいます。その結果、今までとは違った世界を体験することが可能になったのです。だからといって、古いメディアが消えてしまうといった発想はあまりにも短絡的すぎます。問題なのは、コンピュータ・メディアで表現される特性と、これまでのメディアの特性を明確にしていくことが重要です。その中でそれぞれのよい面をお互いが出し合えることが一番望ましいはずです。
ゆるやかな時間の中で、体感的にものに触れながら自分の世界を作っていける絵本。映像情報に囲まれ、コンピュータが日常的になればなるほど、絵本の役割や重要性は、もっと見直されてよいのではないでしょうか。