美術資料図書館のコレクションの歩み

ポスターコレクション

今井良朗
Yoshiro IMAI
Poster Collection

ポスターコレクションの黎明期

―このたび、これまでに収集された2万5千点にもおよぶポスターコレクションのうち約1万5千点が、新棟の貴重書庫に所蔵されますが、改めてコレクションの成り立ちをお聞かせ下さい。
今井│ ポスターコレクションは、60年代後半、当時商業デザイン専攻の主任教授だった原弘先生が、グラフィックデザイン教育の参考資料としてポスターを収集の対象にするよう提案されました。ポスターという媒体は、広告などの様々な広がりを持ちますが、芸術性という価値をきちっと将来のために見ていくべきだということで、当時無かった”アートポスター”という概念を原先生が打ち出したことが始まりのようです。その後、同じく商業デザイン専攻の教授だった粟津潔先生の図らいで、1965年に銀座・松屋で開催された『ペルソナ展』の全作品が当館に編入されました。美術資料図書館でも67年に『1965年のグラフィックデザイン─ペルソナ展の作品から─』という展示を行いましたが、この『ペルソナ展』という展覧会は日本のデザイン史を語るうえで、非常に重要な意味を持ちます。それまで集められたアメリカのアートポスターや展覧会ポスターに、こうした日本のグラフィックデザイナーの作品が加わることで、ポスターコレクションにひとつのベースが出来上がったんです。

―複製物であるポスターという意味において、当時ならば印刷物よりも原画を集めようとする考え方は無かったのですか?
今井│ 当時でもポスターの原画は意味を持っていませんでした。確かに、戦前まではポスターには必ず原画があります。今も町田隆要関係資料の中に原画の一部は残っているはずですが、石版画は原画をもとにして複製していきます。ただ、原画はサイズが小さいものもあるし、あくまでも石に描くためのもとなんですね。それは写真製版になっていく段階でも同じで、特に原先生の手法はポスターのデザインにモンタージュやコラージュを使っていたりしています。そうした点からも原画そのものがはっきりした意味を持っていないので、どこの美術館も原画を集めるという発想はありませんでした。それどころか、70年代ごろまでは、コレクションとしてポスター自体の価値をあまり認めていなかった。当時、神奈川県立近代美術館では、ポスターの展覧会をやったりもしていたし、また東京国立近代美術館はポスターを持っていましたが、シルクスクリーン印刷のポスターが中心でした。それはかろうじて版画の領域に入るということで、どれほど残していく意味があるのか、という考え方が当時の美術館の中にはあったようです。その後80年代に入り、富山県立近代美術館ができたことによってようやく市民権が得られたのではないでしょうか。そうした中、68年に当館で初めてのポスター展として『アメリカのアートポスター展』が開催されましたが、このとき展示されたポスターは、主に当時のアメリカやヨーロッパなど海外のポスターコレクション市場で購入され収集されていた、展覧会に関連したアートポスターです。

コレクションを支えた人々

―国内外のまとまったコレクションの購入または寄贈がありましたが、学外にポスターコレクションが認知されるまでの過渡期のお話を聞かせて下さい。
今井│ それについては幾つかのエポックと、人の関わりがありました。原先生が最初にきっかけをつくったということ、また開館して数年後から亡くなられるまでずっと副館長だった今城甚造先生と課長だった大久保逸雄さんの功績が大きいと思います。当時の美術資料図書館は、教員と職員の垣根が無く、教員も職員の仕事をやっていた時代なんです。その当時は助手だった私も、今城先生や大久保さんと意見を交わしたり、また教員も職員もやる気のある人が集まって、少ない人数で展覧会や日常の業務をこなしていました。ポスター収集に関しても情熱的に取り組んでいました。今城先生も帰宅途中に駅に貼ってあるポスターを駅舎の事務所まで貰いに行ったり、デパートなどでも広報室に行っては貰えるよう頼んで、次の日に抱えて大学に持ってくることが日常だったんです。そうした行動をあたりまえのものとして見ながらみんな育っていくわけです。私もデータの取り方やドキュメンテーションの方法など、美術館に関わる様々なことは、今城先生や大久保さんに教わりました。そうした地道な活動の時代と、そこで尽力された方がいらっしゃるわけです。また、幾つかのコレクションの橋渡しをしてくださった方もいらっしゃいます。1974年に32点のポスターを寄贈してくださったシモン・ボイコ氏もそうです。チェコをつないだのは佐川吉男先生、ドイツは向井周太郎先生、ポーランドについては勝井三雄先生。そうしたみんなが協力して集めていた時代もあります。70年代には、すでにポスターを集めることが前提になっていて、積極的にデザイナーの作品を集めていました。亀倉雄策さんや田中一光さんの作品も、両氏が本学に教えに来られていた際に、今城先生や大久保さんたちの働きかけでかなり寄贈して頂きました。キングレーコレクションについても、ポスターコレクションが軌道に乗った時期で、AIGAという国際的な団体がコレクションの移管先を探していたんです。当時、講談社の『世界のグラフィックデザイン』にポスターの掲載をムサビが協力した関係で寄贈されました。そうして、当館のポスターコレクションの片翼であるアートポスターの礎ができていくわけです。

ムサビ的ポスター収集術

―当館には、アートポスター以外にも、企業広告などのポスターコレクションも収蔵されていますね。
今井│ アートポスターコレクションの一方で、『ドイツ巡回展』を機に、企業が持っているポスターの収集が始まりました。当時はドイツにしても日本にしても、他の美術館は、著名なデザイナーのポスターを展示したいわけです。しかし、そんなときに私はあえてドイツではもっと日本の現状、つまり、街中に貼られているポスターの良いものを見せるべきだという主張をしました。田中一光さんのポスターにしても亀倉雄策さんのポスターにしても、美術館に行かないと見られないことに違和感があったんです。現にサントリーや資生堂などさまざまな企業のポスターの中に良いものがたくさんあって、むしろこういうものを見せていかないと日本のポスターの現状というのは明らかにならないと思ったわけです。しかし、そうしたポスターが市場にあるかといったら無いわけですね。そこで、この機会に集めようじゃないかということで、企業まわりをはじめました。
しかし、一度や二度うかがったくらいでポスターを寄贈してもらえるわけではありません。それでも、何年もかけ、企業に勤めている卒業生をあたったりしながら、何度も足を運んだり、ついでに作品の整理を手伝ったり、信頼関係を築くなかでようやく分けて頂くことができました。また、日宣美がまだ華やかだったころですが、出品するポスターがもう手描きの時代でなくなり、シルクスクリーンで刷っている人たちが随分いました。そこで代表的な工房だったサイトウプロセスにも交渉に行きました。ところが行ってみると、使ってないような部屋の押し入れに、山のようにホコリを被ったポスターが、どさっと積まれていたわけです。斎藤久寿雄さんが、「この中から整理して選んでくれればあげるけど。ただし複数あるのだけね」と言われて、しょうがないから掃除機で掃除してハタキをかけながら、ポスターを順番に見ていって、2枚以上あるものだけを固めていくわけです。こんな形で貰い集めていると、そのうち何か知らないけどムサビから変なやつがポスターくれって回っているよって、うわさが広がっていたようです。
市場に出るポスターというのはデザイナーなりがはっきりしているものしか出てきません。デザイナーの表現性もありますが、ポスターの面白さは、そこに何が表現され、どういったコピーが使われているか、またどういった方法・表現で作られたのかといった、その時代を読み解いて行くおもしろさがあるわけで、時代を経たときに、当時を読み解いていくためには重要な資料になるわけです。そのためには、購入するのではなく、気になったポスターを日々集める。もうそれしかないんだというのが70年代当時の徹底した考え方です。

集めるための展覧会企画

―現在のポスター収集は当時とはまた違った難しさがあったり、そもそも何をコレクションし、また今あるコレクションで何ができるのかといった問題があると思いますが、通常の購入や寄贈とは違った方法で集めることは無かったのですか。
今井│ デザイナーからだけでなく企業のポスターもずっと集めていましたが、これはとても大変で継続が非常に難しい問題がありました。そこで、この際卒業生のポスター展やろうということで、1978年に「武蔵野美術大学卒業生のポスター展」を企画したことがあります。これはポスターを集めることが優先課題で、展覧会だけが目的ではありませんでした。ポスターをいかに集めるかということが先にあり、それが次の企業のポスターを集めていく契機になります。そうした卒業生の繋がりも大事なんです。そうして、ある程度集まっていくことで、広がりもでき上がってきました。岡井先生の紹介で知り合った、その当時『アイデア』の編集長だった石原義久さんには、雑誌に掲載するために集まったポスターを寄贈して頂きました。
結局、ポスター集めは、関心のある人たちがいて、保存することの意義を伝えながら、地道に足を運び、交渉する、それしかないんです。巡回展は、言葉は悪いですが、ある意味でパッケージを買うわけです。パッケージに協賛してお金を払う、そうしたことが普通になってしまっている美術館の現状に違和感を感じます。やはり大学の美術館は、教育研究の中で、何を集めなければならないのかを考えなければ、役割も意義も達成されないと思います。それは展覧会も同様です。展覧会は学芸の仕事の原点ですよね。だって展覧会という場で学ぶんですよ、基本は。私も結果的には「近代日本印刷資料展」を任されたことが自分のその後の生き方を決定づけたんだと思っています。そういう形で物を集める、それに当たる、丁寧にリサーチし、記事を書いていく、という作業を繰り返していくことこそが、いい資料をいい形で残していくということになる、と改めて感じます。その発想は今でも変わりません。だから芸術文化学科にいるのはそういうこともあるからでしょう。やっぱり実際に物に当たり、物に自分が触れて、そこからだという気がします。だから展覧会の企画が自分の専門分野であるかないかというだけでは済まないんですね。展覧会を企画するために勉強するということの重要性みたいなことが必要なんだと思います。

収集し展示することの責任

―お話は、ポスターのコレクションがかなり成熟し、他の美術館も当館のコレクションを頼る時代に入ってきていますが。
今井│ 1980年代に入るとポスターを貸してほしい、という話がいろんな所から出てきました。その際、どのポスターをどこに貸した、どんな展覧会で、何の本に掲載されたという情報を『館報』に記録していきました。また、新聞や雑誌の記事も含めて全部拾っていきました。こういう地道な努力も美術館の仕事なんです。日々の展覧会だけではなく、それがどう評価され、どのように社会的な意味を持っていったのか、というのを検証していくためには、こういった記事をあらためて丁寧に読み解く必要があるわけです。そうすると、そうした履歴からどのようなポスターが一人歩きをし始めるのかがとてもよく分ります。例えば町田隆要の『蜂印香竄葡萄酒』も本当に一人歩きをしてしまうわけです。そういう意味からも美術館の仕事というのは難しいなとつくづく感じました。どういうことかと言うと、町田隆要はここに資料が寄贈されるまで無名の作家でした。当時のポスターの文献には、町田隆要のポスターは作者不詳と載っていたくらいです。それが町田隆要であるということが当館の展覧会で初めてわかるわけです。するとそれ以降、貸し出しが増えた途端にあちこちで町田隆要の名前が出てくると一気に多田北烏と同じくらいのレベルに評価が上がっていくんですね。歴史的評価というのはそのような側面があります。非常に難しいと思います。そういう意味では町田隆要の位置づけを改めて丁寧に評価していくことをやらないと本当はダメなんだと思っています。それがポスターを集めている側の責任にもなってくるというのはすごく感じていています。それぞれが生きた時代背景も違うし……。
町田隆要は、どちらかというと日本画家を目指していましたが、東京美術学校の学生のころから印刷会社で下絵や石版画を描いています。当時の印刷会社は、日本画を学ぶ学生のアルバイト先として珍しいことではありません。そこでポスターを手がけるようになり、そのまま図案の世界に入っていきます。ただ、図案といっても絵画性の強いもので、初期のものは、どのような商品名が入っても構わないような美人画を描いています。ポスターといっても、商品名が入った複製画という感じです。それが徐々に図案化されていく過程はとても興味深いです。印刷会社の画工から図案家になっていく黎明期を生きた重要な人物であったことは事実です。
ただ、早くから図案家として自立していこうとした、杉浦非水や多田北烏と町田隆要を同列に扱っていくのは無理があると思います。町田隆要が生きた場所、果たした役割と杉浦非水や多田北烏が果たした役割、残したものは同じではないからです。町田隆要のコレクションが相当数ありながら、位置づけが明確になっていないことは、美術資料図書館の責任もあるかもしれません。そういう意味では、収集し貸し出すだけでなく評価をしていくことも重要です。

ポスターが持つ意味

―最後に、美術大学の中の美術館・図書館という意味で、ポスターコレクションが果たす役割というのは。
今井│ 大きなビジョンをつくり、それを具体化していくことが必要だと思います。それとポスターの位置づけの問題があるわけです。ここは美術館といえども教育研究の場です。ですからいわゆる有名なデザイナーのコレクションを持っているということを誇りにするのではなくて、ポスターを通して何が研究できるかという土壌をつくることの方が重要です。ポスターのおもしろさというのはその時代層や文化が見えること、それと他のジャンルとの関係性が見えてくることです。そういう意味では、ポスターはデザインでありながら、ずっとアートとデザインをつないでいく役割を持ち続けてきたのだと思います。その点から改めてポスターの時代的意味を問うていくことも必要でしょう。現に19世紀のポスターの持っている意味と50年代の意味と60年代、70年代……今と、全く違う。現在ポスターが50年代と同じように機能しているかと言ったらそうではありません。でも何で消えないのか。そこには見る人との関係がつくり出され、役割を持っているから残っているわけです。単純につくり続けられてきたというわけでないですね。そういう背景にあるものを丁寧に拾っていくためにはデザイナーの名前だけでは見えない。だから街に貼ってあるさまざまなポスターを丁寧に収集しておく。現にここでもそのように集めてきた50年代とか60年代、場合によっては20年代30年代のかつてはゴミと言われたものが意味を持っているわけです。例えば大正のころでも、あの当時の家庭の様子がポスターから見えてきますが、一方でウソもあるわけです。こんな生活だれがしていたのだろう、というようなことが描かれていく背景は何だったのかというおもしろさもあります。町田隆要のポスターもそうです。描かれている題材は、必ずしも日常を表わしているわけではありません。そこには豊かな生活へのあこがれや図案としての誇張が表現されています。このような表象が近未来を支えようとしていたのかもしれない。いろんな見方ができるわけです。それと電器製品だってこの頃に初めてこの扇風機が登場するといったこともわかります。そのような研究対象としてのおもしろさがあります。それは美術大学が集めるのと美術館が集めるのとは意味が違う。文献と連動していることもそうです。そこはちゃんと整理するべきだと思います。それと、ここでは印刷の資料としての意味を持たせている。特にポスターに関しては石版から今日までつながっています。その変遷を見ていく上でもとてもおもしろい資料だと思います。

『ペルソナ展』
1965年に開催された『ペルソナ展』は、第一世代に続く第二世代の存在を強くアピールする結果となった。メンバーは、粟津潔、宇野亜喜良、片山利弘、勝井三雄、木村恒久、田中一光、永井一正、福田繁雄、細谷巌、横尾忠則、和田誠の11人が参加。デザイナーが匿名性ではなく、まさにペルソナとして固有の顔を持つことを主張した。これは、コマーシャル・ポスターの世界での集団的な制作システムとの差異を明確にするものであり、ポスターが作家と常に一体的関係にあること、個人の表現に支えられるものであることを前面に打ち出したものだった。
原弘先生の説明、および作品画像
(当館サイバーミュージアム『日本のポスターのアヴァンギャルド アングラ1960-1980』より)
 
サイトウプロセス
1954年に斎藤久寿雄によって設立された小さな印刷工房。当時は、粟津潔や杉浦康平、勝井三雄、田中一光など日宣美のデザイナーをはじめ、横尾忠則、平野甲賀など、第一線のデザイナーの作品を手がけていた。そうしたポスターが日宣美で受賞したことを機に、シルクスクリーン印刷のポスターが注目を浴びる。
 
旧ポスター庫
昭和53年に作品庫および書庫を増築したが、そのとき第一作品庫の一部をポスター・コレクション収納コーナーに当てた。そこではポスター保存と収納についていくつかの新機軸を打ち出し、公的ポスター・コレクションにふさわしい保存と管理の体制の確立を目指した。
 
今井良朗
武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科商業デザイン専攻卒業。
東京造形大学非常勤講師、武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科教授を経て、現職である芸術文化学科教授となる。
1976年から武蔵野美術大学美術資料図書館のポスターコレクション、絵本コレクションの体系化に従事、1994年から2000年まで同美術資料図書館副館長を務める。専門分野は、ポスターや絵本などのグラフィック表現を対象にした表現論、視覚表象研究、印刷表現史や日本近代デザイン史、ヴィジュアル・コミュニケーション・デザイン、アート/デザイン・マネージメントと多岐に渡る。近年では、1997年絵本学会の設立に参加、以後絵本の表現研究とともに講座やワークショップを通じて芸術・文化の普及に努めている。

武蔵野美術大学 美術館・図書館 ポスター収蔵の流れ 1966─2002

1966 ●美術資料図書館が発足
1967 ●鷹の台校に美術資料図書館が開館。この頃に原弘教授より当館コレクションとして「アートポスター」を収集することが提案される
●東京国立近代美術館より展覧会告知ポスター(すべて原弘教授によるデザイン)が寄贈される
●1965年に銀座松屋で開催された「ペルソナ展」出品作品の大半が寄贈されたのを受け、「1965年のグラフィックデザイン─ペルソナ展の作品から─」を開催
1968 ●当館初のポスター展「アメリカ・アート・ポスター展」を開催
1969 ●原弘教授作品展を開催
1971 ●本学佐川吉男教授[一般教育、音楽]の尽力により、日本とチェコスロヴァキアのデザイナーによるポスター交換展が開催される。大使館よりチェコのポスター115枚が寄贈される。東欧系ポスターコレクションの収集の礎が築かれる
1973 ●ハワイ大学教授であったKingrey氏のコレクション(約200枚)を購入。当コレクションは、1952年に設立されたAGI会員による作品を中心に構成され、貴重な作品が数多く含まれるものであった
●亀倉雄策氏、田中一光氏から当館コレクションへ寄贈を受ける。以後数多くの我が国を代表するグラフィックデザイナーより寄贈される
1974 ●ポーランドのグラフィックデザイナー、シモン・ボイコ氏より現代ポーランドのポスター32点が寄贈される。これを機に「ポーランド・ポスター展」を開催する
●当時教務部長であった星川進教授[一般教育、社会学]が観たテレビ番組がきっかけとなり、町田コレクション(町田隆要氏の手がけたポスターおよび印刷資料)が寄贈される。このコレクションをベースに「近代日本印刷資料展」を開催する
1977 ●1978年に開催された「武蔵野美術大学卒業生のポスター展」準備のために、約100名の卒業生デザイナーから約500枚の企業ポスターが寄贈。
●雑誌「オリコミ」誌上公募作品が寄贈され、以後1986年まで続く
1979 ●日本を代表するデザイナーがこぞってポスター制作をおこなっていた、シルクスクリーン印刷工房「齋藤プロセス」の齋藤久寿雄氏より、戦後日本のグラフィックデザインを通覧できる332枚のポスターが寄贈される。この寄贈を元に「スクリーンプロセスによる現代日本のポスター展」を開催
●雑誌「アイデア」編集部より411点のポスターが寄贈される
1980 ●日本観光協会より121点が寄贈される
1982 ●多田北烏の高弟である、風間四郎氏から北烏作品92点が寄贈される。
●ドイツ各地で開催された「日本のポスター展」の国内窓口として、多くの企業、デザイナーから寄贈を受ける
●ポーランドポスターを「Striped House Museum」より55枚購入。
1983 ●「フィンランドのポスター展」を開催。1981年にヘルシンキで開催された世界デザイン会議でJAGDAとフィンランドグラフィックデザイナー協会との話し合いのなかで展覧会の開催が決定された
1984 ●「ポスターデザインの先駆者多田北烏とその周辺展」を開催。以後たびたびにわたって全国の美術館より、作品貸出依頼を受ける
1985 ●イラストレーターであり、グラフィックデザイナーである大橋正教授作品展を開催。60点が当館に寄贈される
1986 ●ゴローインターナショナルよりヒッピーポスター180点を購入
1996 ●ポーランドのポスターショップにて80点を購入
1997 ●ジェイムズ・フレイザー氏よりフレイザー・コレクション約1200点を購入
1998 ●副館長今井良朗教授[視覚伝達デザイン学科(当時)]がポーランドのポズナニ美術館、ワルシャワ美術館を訪問し、当館コレクションとの作品交換が実現する。これを元にポーランドアート・ポスター展を開催する
2000 ●国際ポスター展inはなはるフェスタ2000に協力し、出品作100点が寄贈される
2001 ●勝井三雄教授作品展を開催、65点が寄贈される
2002 ●映画ポスター約2000枚が八木洋行氏より寄贈される

ポスターコレクション