教育現場としての展覧会

国際交流・教育支援・研究支援
教育現場としての展覧会

今井良朗
Yoshiro IMAI

教育支援
絵本の視線と空間
1993年6月21日-7月22日
武蔵野美術大学美術資料図書館
1・2階展示室

展覧会概要

館蔵約3000冊の絵本コレクションをもとに、当館にとってはあらゆる意味で実験的な試みを行った展覧会。
企画・実施の面からは、本学における日常の教育・研究活動を基盤にした展覧会企画であることを前提に、展覧会のためのテーマの立案から、資料収集、研究、制作などの過程を経て、展覧会の展示計画、カタログ編集の実践までを授業の中に組み込むという試みである。
また、展観の側面からは、絵本の世界で行われてきた多様で多彩な視覚表現に焦点を合わせ、絵本のテーマがどのように視覚化されてきたか、どのような方法論で構成されているかを「表現の変遷」、「視点の様態」、「視覚表現の可能性」、「映像化やコンピュータ絵本の可能性」などを軸に展示構成された。

学生たちを巻き込んだ展覧会

「絵本の視線と空間展」(1993年)を開いた頃、僕はまだ視覚伝達デザイン学科にいて、今の芸術文化学科を創設する話もまだ出ていませんでした。ちょうどこの2年ほど前にアメリカの大学を視察で巡回して、アメリカでは、教育・研究と美術館が密接に繋がっているのが大前提だと感じていたんです。
当時からムサビの美術資料図書館は、いわゆる学芸員が存在せず、職員と教員が展覧会を企画していく形で、学生を巻き込むことなんて全く考えられなかった。でもある時、絵本がたまたま集まってきたので、じゃあ大きな展覧会をやろうという話になって、思い切って学生や研究室を全面的に巻き込んだのが、この「絵本の視線と空間展」なんですよ。
視覚伝達デザイン学科の研究室と美術館スタッフで、希望する学生を募り、さらに目黒区美術館の降旗千賀子さんにも話を持ちかけて、一種の共同研究的という形にして、最終的には目黒区美術館でも巡回展をやりました。当時、心理学の立花義遼先生にも原稿を書いていただいた。要するに、ひとつの学科で閉じるのではなく外にひろがっていくことで、学生たちにも刺激を与えようと。面白かったですよ。学生たちも熱心だったし、当時助手だった米徳信一先生(現在・芸術文化学科教授)や、非常勤講師の岡川純子さんも関わってくれて。さらに下村千早先生もデジタルを使った絵本の可能性を、初歩的でいいから探ってみようということで関わってくださいましたね。
そしてタイトルにも表れているように絵本を違う視点で見てみよう、それがムサビらしい展覧会になる、という発想だったので、学生たちとミーティングや研究会を重ねて議論をしていきましたそれまでの絵本の展覧会は児童文学の文脈で取り上げられていたけども、この展覧会は絵本が研究資料として重要だと分かる形にしたかったんですよ。
準備期間は1年以上かけましたね。予算上の問題もあるけども、やはりきっちりと丁寧な準備をした展覧会が年に1本は欲しい。僕が一番最初に関わった「近代日本印刷資料展」(1976年)も1年以上かけました。外部の資料を集めたりすると、3ヶ月くらいでは無理です。

DTPで制作したカタログ

カタログは、学生たちが全部自分たちでレイアウトし、文章も大部分を書くという前提でした。もちろん文章のチェックはしましたけどね。当時はマッキントッシュがDTPとしてようやく使えるかなあ、という時代で、今と違って書体がなかったから、組んだものを写植に変換した。インデザインではなくページメーカー。DTPはまだ学科のカリキュラムにも入ってなかったし、パソコンも実験的に何台かあるだけの状況でしたね。
当時はカラーでカタログを作るなんて珍しかった。出品目録にモノクロの写真や文字原稿を少し載せる程度だった。少し豪華になるのが退任展で、その中で充実してたのは豊口克平さんとか芳武茂介さんのカタログだけど、それでさえも今からみたら寂しいくらい。当時は今よりずっと安い予算の中でやっていました。大塚直文さんが美術資料図書館の部長になられた頃から、カタログもちゃんとしたものを作ろうということになって、少しずつ良くなっていったんだけど、それでも当時は派手にするのではなく、上質のものを丁寧に作っていこうとしていましたね。
実際このカタログは絵本関係者が結構見てくれて、未だに話題になるんですよ。これがきっかけで文教大学の中川素子先生が「絵本学会を作りませんか?」と面識もないのに尋ねてきてくださった。教育に関わることで、なおかつ研究に発展していく。外に発信することで、ムサビではこういうことをやっているんだと知られるわけです。やっぱり美術館・図書館は大学の心臓部だから、そこが中心になっていくことで、生きたダイナミズムが生まれる。

学生たちの経験の場として

「絵本の視線と空間展」は美術資料図書館の1Fを全部使い切る規模だったので、手元の絵本だけでは埋まりきらず、銀杏書房や福音館からも資料を借りました。つまり展覧会をやるには自前の資料だけでは賄えない。じゃあそれをどう埋めていくのか、といったことを学生たちにも実感してほしかった。そういう実践の場がなければ、結局全てがシミュレーションで終わるだけで、みんな仮定で終わってしまう。
芸術文化学科の構想ができた当時、僕はムサビの美術資料図書館の副館長でもあったので、美術館と教育機関を結びつけることは当然考えていました。芸文は、学芸員を育てていけるような学科にしてほしいという理事会の意向もあってできたのですが、当時、日本には他にそういう学科がなかったんですね。なぜかといえば普通の大学には資料がない。さらには専門家が揃わない。その点、美術大学には資料も人材もある。作る人がいる。理論をやる人がいる。工房がある。アトリエがある。こうした条件を活かしていけば、美術大学こそが21世紀に必要なものを最も発信できる場になると考えたんです。
例えば岡部あおみ先生はルーブル美術学院出身で、理論だけじゃなくて実際にデッサンもしたり、ルーブル美術館で様々な経験を学ばれてるんですね。僕が見てきたアメリカでも教育部門は非常に充実している。豊富な資料に日常的に触れられる環境で育った学芸員は、他大学とは全然違う資質を持って出ていけるんです。
新しく芸文ができてすぐに「絵本と印刷技術1687-1933展 表現が先か?技術が先か?」(2001年)を開いたんだけども、この時は初年度で学生の力量も分からないから手探りでした。でも当時芸文の1期生だった学生たちは、今でもあれが記憶の中にあると言いますね。ああいう経験ができること自体が大きいんです。展覧会を企画してもただのペーパーで終わるのでは責任を持てない。文章を書けば責任も発生するから、やっぱり面白い文章を書くんだよね、学生も。こういう経験を蓄積していくことが、美術大学のこれからの可能性だと思いますよ。

常設展の必要性

企画展だけで回していくのでは、普通の美術館やギャラリーと変わらなくなってしまう。アメリカでは常設展のない大学美術館なんてありえません。目玉の資料が必ずどこの大学にもあってそれがその大学の色になり、この大学に来ればこの研究ができるんだと分かるようになっている。常設展を持って、学生たちが日常的に資料に触れていける機会を増やすことは本当に大切だと思います。各学科の研究室が、日常的な美術館・図書館の利用の仕方を積極的に提案してもいいかもしれませんね。そうした緊張感も必要ではないでしょうか。
特にこれはいつも言っていることですが、デジタルの時代だからこそ、プリンティングに関する常設展は必須です。版画や印刷や製本は、デザインもアートもからむ軸ですから。現に2011年度の卒制でも、工房もないのに、銅販で刷って絵本を作った学生がいた。機械がないから文字は全部手で押しているんです。どうしてそんな涙ぐましいことをあえてやるかというと、やっぱり一度実際に古い時代のモノに触れた時に、自分でもやってみたいと、そしてそこから違う表現の可能性を探りたいと思うからなんですね。
それから卒業後の学生たちに責任を持っていくことも大事だと思います。端的な例で言えば、版画家を目指す人は卒業したらプレス機がないから刷れないんですよ。例えば版画のプレス機がある共用の工房を作るとか、いろんな支援の仕方はある。そうでないと未来のアーティストは育てられない。4年間だけの関係ではないんです。卒業してからどういう活動をして、どういう仕事をして、どういう社会貢献をしていくか。そうした構想の中で重要な役割を果たすのが、やっぱり美術館・図書館ではないでしょうか。大学の心臓部ですから。

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