コレクションポリシーⅡ−グラフィックデザイン

今井良朗

コレクションと原弘教授

美術資料図書館(現 美術館・図書館)でポスターの収集が始まったのは、開館後間もない1960年代後半のことでした。当時造形学部商業デザイン専攻(現視覚伝達デザイン学科)の主任教授であった原弘(はらひろむ)先生が、グラフィックデザイン教育の参考資料としてポスターを収集の対象とすることを提唱されたのがきっかけです。私自身がポスター収集に関わるようになったのは、1970年代の半ば以降のことです。その時には既に原先生はこの学校を辞められた後でしたが、幸いなことに私は学生時代に原先生から教わった経験がありましたし、その後も原先生の作品に強い関心を持って見てきました。最初に収集を提案された原先生が、どんなことを考えられていたのかを直接的にも間接的にもある程度教わっていたことは、ポスターを大学美術館のコレクションとして位置づけていく過程において、とても有効でした。
また、私にとっては、ポスター以外のグラフィックコレクションの収集過程でも大きな影響を受けました。原先生は、学生に対して「デザインとは、決して技術だけではない。あるいは表現だけの問題でもない。その背景に潜む思想や理念をしっかり押さえ、初めて成立する。そして社会性を持つものでなければならない。」ということを常々話されていました。この考え方は、ポスターコレクションをはじめグラフィックコレクションのすべてに通じるものです。ただ作家中心に作品を集めればいいという発想ではなく、独自の視点が必要ということです。それは歴史的資料としての重要性であり、文化社会学や表象文化の観点からも有効な資料として体系的に整理し保存することです。そして何よりも、大学美術館が収集、保存するからには教育研究活動に活かされなければならない、ということです。収集活動に関わるなかで、私が最も重視したのはまさにこの点でした。
それでも最初の頃は、ポスターを集めても保存していく基準をどこに置くべきかで迷いました。美術大学で集めていく以上、芸術性は重要な観点です。そもそも収集の原点は、ポスターがもつ芸術性を評価していくこと、その価値を将来に繋げていくことでした。原先生が名づけた「アートポスター」という概念であり、収集の最初の基準です。これらのポスターは、グラフィックデザイナーの個人的な力量と、その作品としての完成度、芸術性を重視するものです。当初、シルクスクリーン印刷によるアメリカのグラフィックデザイナーのポスターを中心に収集していたのもそのためです。
しかし、一方で広告を中心に、集団によって制作されるポスター、つまり、デザイナー、コピーライター、イラストレーター、フォトグラファーなどが一体となって制作されるものがあります。また、1970年代多くの美術館は、ポスターを絵画的に一枚の芸術作品として扱う傾向が強く、版画として扱われることも珍しいことではありませんでした。原先生も図案と呼ばれたころの絵画的ポスターと一線を画し、「応用美術」という呼称を嫌っていました。「ポスターにおける芸術性」を曲がりなりにも定義づけていくことは、思いのほか重い課題でした。
そんな頃、問題解決の糸口は身近なところから見つけることができました。1967年に東京国立近代美術館から寄贈されていた原先生デザインによる展覧会ポスターと、1969年に開催された「原弘教授作品展」を機に保存されていたポスターです。そこには、実に多様な表現性を見いだすことができます。写真やイラストレーション、タイポグラフィなど表現要素の違いによる視覚的表現特性のひろがりもその一つです。原先生のデザイン観が凝縮されているのです。日本の近代グラフィックデザインが形成されていく過程と共に歩み、視覚表現の新しい構成法を積極的に試みた姿が浮かび上がってきます。
アートポスターというジャンルを明確に位置づけ、宣伝、広告を目的としたポスターとはっきりと区分するのは、確かに難しい側面があります。ところが、表現内容で見ていけば、どのようなポスターでも、機能を超えてそこに芸術性は存在します。当初の機能、目的にとどまらず、半永久的にその表現されたものが存在価値を失わないものは、結果的にアートポスターとしての意味を帯びる可能性を持っているのです。ポスターは、当初の機能、日常性を失っても美のメタファーとして、すなわち芸術作品として認められるという側面を持っているからでしょう。
ポスターを狭い枠組みで捉えるのではなく、デザイン資料、さらには学術資料として位置づけたとき、多様な視点によるアプローチが可能になります。ポスターは、時間を経ることで新たな意味を帯びます。デザイン運動や表現思潮との関連性、印刷技術、また、風俗や社会の動向を読み取る資料としても貴重な材料になるのです。近代のポスターから、われわれは実に多くのことを学ぶことができるという実感です。
ポスターのもつ社会性については、原先生が特に重視した要素でした。デザインを「伝達のための文化技術」、「社会総体の要求に応ずる」客観的方法と捉えた原先生の言葉に従えば、ポスターは美術、デザインの分野にとどまらず様々な周辺領域との関係を結びつけるメディアと考えることができます。デザイナーは、社会と人を結ぶ媒介者であり、社会の動きをそのまま反映してポスターの世界は成り立っています。
「網羅的に集め、独自の分類を行なう」、という収集の方向性が確認されていったのは、自然な流れだったのです。「社会でどのように作用していたか、しているか」、という観点こそが独自の集め方だったといえるものかもしれません。

印刷技術とデザイン

美術館・図書館のポスターコレクションのなかの特筆すべき一群に、町田コレクション=町田隆要(まちだりゅうよう)の手がけた1894年から1930年代のポスターおよび印刷資料があります。ご遺族が散逸してしまうのは寂しいということで、寄贈された資料です。初めてこれを見に行った時に一番驚いたのは、石版印刷によるポスターの画面でした。印刷物とは思えない重厚な絵画的な画面です。明治から大正期の日本の石版印刷によるポスターは、それまで本などの印刷物では見ていました。しかし、それらは写真撮影され、一度オフセット印刷に変換された状態のものを見ていたわけです。シェレやロートレックなどの海外の作家による実物ならば見たことはありましたが、日本の石版印刷ポスターを見る機会はほとんどありませんでした。大半が10色以上で刷られたものです。当時、石版印刷が一般的な印刷方式だったとはいえ、日本画や油絵の原画を模写によって再現する精巧な技術は、驚きでした。写真によって複製することを、人間の眼と手によって行なっていたわけです。この技術がいかに熟練を要したかは想像できるでしょう。
町田隆要は、石版画工出身の数少ないポスター作家の一人で、絵柄を直接石版石に描画していました。コレクションには、下絵や校正刷りも含まれ、印刷されるプロセスがはっきりとうかがえるものです。
グラフィックデザインと印刷表現の間に密接な関係があることは、当然認識していましたが、1970年代に入り、ポスターの潮流はグラフィックデザインからビジュアルデザインという概念へ移行しはじめていました。そのような状況で「印刷表現とデザイン」あるいは「印刷表現とポスター」という問題についてあらためて深く考えるきっかけになったのが、町田隆要のコレクションでした。
町田コレクションを基に1976年9月「近代日本印刷資料展−石版印刷を中心に−」を開催しています。この企画展は、私が初めて企画を任されたもので、思い出深い展覧会の一つです。このとき指導を受けたのが、秀英舎(大日本印刷の前身)の石版画工だった橋本正平氏です。何度もご自宅に通い、当時の印刷技法について学びました。これが縁で、亡くなられるまで親交が続き、石版から写真製版に移行していく過程、当時のすべての印刷技術に触れることができました。その後1982年に寄贈を受けた多田北烏のポスター92点も橋本氏が橋渡しをしてくれたものです。
現在を含めいつの時代であっても、印刷の技術特性が結果として表現そのものを規定していくことになります。特に古いポスターを丁寧に見ていくためには、印刷技術を抜きにして語ることはできません。複製手段である版形式と印刷技術の変遷が密接に関係しているからです。いわば版の物理的特性が表現そのものといっても過言ではないのです。
現在、美術館・図書館が所蔵するポスターのデータには、印刷技術に関する項目が入っています。詳細な解析とデータの記載を可能にしているのは、これまでの蓄積があるからです。

絵本とブックデザイン

美術館・図書館のグラフィックデザインに関するコレクションで忘れてはならないのが絵本コレクションでしょう。絵本といえば児童文学の視点に立って収集されることが多いのが実状です。しかし、ムサビは美術大学である以上、絵本の表現性、イラストレーションにこだわって収集が始まりました。当然、制作のための教育・研究資料という前提があったからです。最初は、欧米の現代絵本が対象で、1974年、最初の絵本展「外国の絵本展」の開催を機に収集に関わるようになりました。
本格的な収集にいたるまでには、いくつかのきっかけがありました。そのひとつが日本橋の丸善で行われていた「世界の絵本展」です。これは展覧会ではなく、外国から集められた絵本を販売する目的の展示会です。このイベントに出される前の3,000冊近くの絵本を丸善の倉庫でチェックし、そのなかから200冊ぐらいを購入するということを数年間続けました。大量の絵本を集中的に見て、選びだす作業をするうちに、想像していた以上に多彩な表現の魅力に取り憑かれたのです。
1977年には、ケイト・グリーナウェイ、ウオルター・クレイン、ランドルフ・コールデコットの作品を含む19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパの絵本コレクション、約200冊が雄松堂書店を通して入ってきました。歴史的背景をも視野に入れた本格的な収集の始まりです。
大学の絵本コレクションに携わる以上、自然と絵本に関する文献や雑誌を集めるようになります。そしてここでもまた、原先生と出会うことになります。原先生はかなり早い時期からデザイナーによる絵本として、ソウル・バスやポール・ランド、ブルーノ・ムナーリを紹介し、デザインの観点で絵本を見ていくことの面白さを語っています。
ソウル・バスの絵本Henri’s Walk to Parisとブルーノ・ムナーリのNella Nebbia di Milanoを見たとき、激しい衝撃を受けました。絵本の世界に対して本格的に開眼させられたのは、この時でした。同時にブックデザインとして絵本を見ていくことの必要性を痛感しました。絵本が視覚表現全般に通じる表現形式として、重要な意味を持っているのではないか、との認識からです。これは後に感じることになるのですが、1973年に原先生の監修で開催された「現代日本の本の装幀展」を手伝ったことも、少なからず影響していたように思います。
絵本に関する研究はやはりイギリスが最も盛んでした。そのイギリスでは児童文学の視点で絵本を捉える傾向が強く見られます。日本でもその傾向は同様でしたが、当時絵本研究の第一人者だった瀬田貞二氏の幅広い絵本観には、大きな影響を受けました。瀬田氏の助言と激励はとても心強いものでした。ムサビの絵本収集の視点を高く評価され、コレクションの充実に期待を寄せられたことが現在に繋がっています。
それでも、歴史的な資料を評価し収集していく作業は、容易なことではありませんでした。ムサビの収集方針には、絵本の視覚表現やデザインからの評価を加えていたからです。そんな折り出会ったのがAmerican Picture Books from Noah’s Ark to The Beast Withinという文献でした。私にとっては、この文献が絵本をムサビで集めていくための大きな指針となりました。1920年代以降にアメリカで出版された絵本には、デザインの影響が色濃く見られます。また、19世紀末から20世紀初頭の様々な美術やデザイン運動と密接に結びつく表現が絵本の中に表出しているのです。1950年代、60年代には、グラフィックデザイナーが絵本の表現をひろげていく上で重要な役割を果たしています。現代の絵本を見ていく上でも、20世紀に入ってからアメリカで出版された絵本は、コレクションに欠かせないものになっていきました。児童文学や絵画的評価だけにとどめず、印刷技術やグラフィックデザインとの関連、表現史など視覚芸術全般を視野に入れた収集が、ムサビ固有のコレクションになっていったのだと思っています。
このような収集の視点は、おのずと他のグラフィックデザイン資料とも繋がっています。他の美術館であれば収集に手をつけないものについても、さまざまな資料が収集、保存されています。ニューヨーク・アートディレクターズクラブのエディトリアルデザイン作品やカレンダーなどがそうです。中でもブックデザイン関連の資料は、独特の収集が成されています。通常図書館では、函入りの本を購入しても、その函はほとんど捨ててしまいます。書架に本を入れていくときに、スペースを取ってしまうからです。しかし、ここではカバーや函は廃棄しないことが前提です。ただし全部取っておくのは大変ですから、選定したうえで、残すに値する函やカバーについては残してきています。そのような本には直接ラベルを貼らないことがあります。
これは、1973年に開催された「現代日本の本の装幀展」以来の慣習です。原先生の「無粋なラベルが、せっかくの装幀を台無しにしている」という一言から始まったものです。つまり装幀やブックデザイン資料として展示する可能性があるものについては、直にラベルを貼らずに、外側に別の紙を1回巻いた上で、その上からラベルを貼るようにしているのです。同様に蔵書印も目立たないよう色のつかない型押しになっています。本としてだけでなくデザイン資料としても見てきたからです。おそらく他の図書館では行われていないことです。

大学美術館としての使命

「柳瀬正夢コレクション」は、美術館・図書館が大学美術館だからこそ意味を持つコレクションの一つです。柳瀬正夢(やなせまさむ)の作品群は、元々東京都美術館に寄託されていたのですが、ご遺族が最終的な寄贈先を探していました。条件は、作品と資料をしっかりと保管でき、かつ研究に活用されることでした。この条件を満たす施設として本学の美術館・図書館が選ばれた経緯があります。
ものを収集し保存する組織にとって、一番大きな責任は、それらの資料がどのように活用され、研究されていくか、そしてそれらが未来に繋がっていくということです。その意味からも、教育研究に活用されるという前提は、大学美術館にとって特に重要な点です。柳瀬コレクションは、ポスターから絵画、装幀、漫画、写真、舞台美術など様々な資料で構成されています。さらに、柳瀬が活躍した1920年代から40年代は、世界的に新しい美術思潮、デザイン運動が起こった時期でもあります。プロレタリア文化運動の中心的な役割を担った柳瀬の作品群は、日本の近代美術、デザインを研究する上で欠かせない存在になっています。
これらのコレクションがムサビに入り、かつ共同研究を経て大きな展覧会が三度も開催されたことは、美術館・図書館にとって大きな意味を持っています。
海外の大学美術館、大学図書館を見てみると、一流と呼ばれる施設には、必ずコレクションに核となる存在や特徴があります。「ここに行けば、この研究ができる」というコレクションを持っているのです。
ムサビの美術館・図書館は、ある程度その核ができつつあります。美術、デザインの分野から「日本の近代」、「ヨーロッパの近代」に関する様々な研究に供する資料は、国内有数の規模に成長しています。それも、ものとしての資料に加え図書資料が充実していることです。
美術館、博物館、図書館、三つの機能を合わせ持った施設として出発した美術資料図書館の理念は、大学の施設として考えたとき、現在一層有効だといえるでしょう。美術、デザイン資料と図書資料が有機的に繋がることによって、教育、研究をより豊かなものにしてくれるからです。さらには、現在進んでいる統合データベースの構築によって、包括的なデータの活用と公開、連携が可能になるはずです。これこそが本学の特性であり、美術館・図書館の特性だということを、展覧会活動などを通じて、これまで以上に強くアピールしていくことは必要でしょう。
コレクションに明確な核が存在すると、そこには必ず研究者が集まります。これは世界共通のことで、そうした施設や研究者を目指して留学生も集まってきます。研究成果は、コレクションの存在をより明確にし、また研究成果が公開されることで、新たな研究者が集まって来るという循環構造ができあがります。そして、こうした美術館・図書館のコレクションをベースにした研究活動と、本学の大学院が密接に関わるのが理想だと思います。大学院生が積極的に資料を活用し、ここのコレクションをベースに研究テーマを発展させ、研究成果を発信していく。このような環境が整った時に、本当にいい美術館・図書館になるのだろうと思います

「コレクションポリシー Ⅱ グラフィックデザイン」『ムサビのデザイン コレクションと教育でたどるデザイン史』武蔵野美術大学美術館・図書館 2011年6月