『シェイクスピアの庭の花たち』

クレインが描く妖精

シェイクスピアの戯曲には、ローズマリーやラベンダーなどのハーブをはじめさまざまな植物が比喩的に用いられ、表現上重要な役割を果たしている。「シェイクスピアの庭」は、戯曲に紹介された植物をテーマに造園された特別の庭である。ヨーロッパだけでなく同じ英語圏のアメリカにも多くの「シェイクスピアの庭」があり、現在でも市民に親しまれている。
『シェイクスピアの庭の花たち(Flowers from Shakespeare’s Garden 1906)』は、最初のページに「ワーウィック公爵夫人に捧げる 夫人の美しいイーストン・ロッジのイングリッシュ・ガーデンで、この本のイマジネーションあふれる構想がうまれたことに、感謝をこめて」とあるように、クレインが美しくガーデニングされた庭を観賞しながら、シェイクスピアの戯曲にイマジネーションを重ねた絵本である。
咲き誇る花々、それぞれは個別に存在しているのではなく庭の中で物語を奏でている。それは庭を設計していく過程で演出されるものでもあり、季節や天候、そして観賞する側のイマジネーションと共鳴してつくり出される物語でもある。「シェイクスピアの庭」は、そこにシェイクスピアの戯曲を重ねることで、さらに鑑賞者のイマジネーションを刺激する。もちろんシェイクスピアの作品を知っていることが前提になるが、イギリスではシェイクスピアの作品はなじみ深く、だからこそ「シェイクスピアの庭」も成立するのである。
シェイクスピアの戯曲は、感情を象徴するために植物を隠喩として使用するが、『ロミオとジュリエット』や『ハムレット』では、ロミオやオフィーリアの言葉と重ねた典型的な場面としてしばしば登場する。この絵本では20、21ページに『ハムレット』第4幕第5場からの引用としてローズマリーと三色スミレの妖精が描かれている。
「There’s rosemary, that’s for remembrance; 」(ローズマリーは、思い出のしるし−わたしを忘れないでね」、「and There is pansies, that’s for thoughts.](それから、これは三色スミレ、ものを思うしるし)は、オフィーリアの感情の揺らぎや深い悲しみの記号としてローズマリー、三色スミレが使われている。言葉で感情を具体的に述べる形ではなく、植物を隠喩として使用することで見る側にイメージのひろがりをゆだねるのである。
戯曲は、演じられることを前提に書かれたものであり、役者の衣裳と演技そして台詞で構成される。視覚的な鑑賞と音としての台詞を楽しむことになるが、これはある意味イラストレーションと言葉を要素に時間と空間の流れを表現する絵本とも共通している。
クレインは、シェイクスピアの戯曲から引き出される花々のイメージをイラストレーションに置き換えて見せた。それも「シェイクスピアの庭」という植物だけを抽出したイングリッシュ・ガーデンから思い描いた。植物に秘められた記号的意味やイメージをシェイクスピアの戯曲に重ねたのである。ローズマリー、三色スミレ、ラベンダー、ミント、マリーゴールドなど庭に咲き誇る花々は妖精として描かれた。
クレインにとって花の妖精は『Flora’s Feast 1888』以来『Queen Summer 1891』『A Floral Fantasy 1899』で描かれてきた主題である。擬人化された花は想像力に満ち溢れ、詩的でユーモラスな表現はクレインの新しい境地を開くものだった。『シェイクスピアの庭の花たち 』は、さらにシェイクスピアの戯曲を重ねることで、テキストと一体化した感情の表現に至っている。
この絵本は順序立った物語で構成されているわけではない。シェイクスピアの15の戯曲を基にそれぞれのページに独立して花の妖精が描かれている。あたかも花の妖精図譜といった感もあるが、それだけ読みかた楽しみかたも自由ということでもある。読者はガーデニングされた美しい庭の情景を頭に思い浮かべながら花の妖精たちの物語を楽しむ。そして、そこにシェイクスピアの戯曲を重ねることでさらにイメージをひろげ楽しむことができる。この絵本は、ストーリーを読ませるのではなく読者の想像力を刺激する。クレインは、子どもを意識せず描いたと思われるが、花の妖精というファンタジックな世界は子どもたちを十分楽しませてくれるし、シェイクスピアの戯曲の展開にあわせた登場人物と花の妖精の語りかけは大人にとっても魅力的である。年代を越えて楽しめる絵本なのである。

クレインの表現

『シェイクスピアの庭の花たち 』は、「トイブック」シリーズで見られた表現と少し様相が違う。木口木版によるしっかりした輪郭線や強く鮮やかな色彩と比べると、輪郭線も曲線的で柔らかく色彩も全体に透明感のある淡い調子で仕上げられている。「トイブック」シリーズの構成が構造的で極めて装飾的であるのに対してシンプルな構成になっている。背景はほとんど描かれず、花の妖精たちは白い背景に浮かびあがっている。色彩の数も限定され、輪郭を強い色面が埋めるというよりは、輪郭線にとらわれることなく伸びやかに彩色されている。水彩画の特性がそのまま印刷され再現されているが、これは石版印刷による効果がもたらしたものである。では石版印刷が柔らかな表現に向いているかというと必ずしもそうではない。石版印刷による表現は、実は描写方法によって自在ではばひろい表現効果を生み出すことができる。
石版印刷の原理は、水と油の反発を利用した凹凸のない平版の印刷技術である。石灰石版に油性のクレヨンや油性のとき墨で直接図柄を描くが、描いた部分だけにインキが着き、図柄以外には石版を水で湿らせておくことでインキが反発して付着しない。この方法は今日一般的なオフセット印刷と同様の原理に基づく版種で、このような平版印刷の普及がその後の大量複製を飛躍的に向上させたのである。
木版や銅版の表現が版材や印刷技術の制約を受けるのに対して、石版は、紙に描くように石版にクレヨンやとき墨、ペンで直接絵を描くことができる。絵画的な画像の再現に優れた石版印刷は、絵本の表現の自由度を飛躍的に高めた。こうした絵画的画像の再現性にすぐれていたことが、油彩、水彩、素描など、もとの表現方法にあわせた石版への描画を可能にし、当初は、他の表現の有効な複製として受け入れられたのである。初期の書物の挿絵や絵本には、原画である油彩画や水彩画をそのまま複製した表現法によるものが多く見られるのもこのためである。
当初クレインは、こうした原画をそのまま再現したような石版刷り絵本に否定的だった。油彩画などの絵画を忠実に複製することに徹した濃密な描写、肉厚に盛られたインキによる印刷は、芸術性も品格もないと見ていたからである。クレインにとって、印刷技法の特性を生かした表現こそ独創性のある優れたデザインだったからである。事実、初期の石版印刷による絵本は、石版の表現特性を生かすというよりは、絵画の単なる複製手段でしかなかった。
クレインは、『Flora’s Feast』以降石版独特の砂目や透明な色彩感による端正かつのびやかなタッチの表現を試みた。水彩による原画を生かすために自制の効いた表現で石版印刷の特性をうまく生かしている。柔らかな調子を好んだ結果石版印刷を選んだのか、石版印刷の特性を認識した上で新たな表現に挑んだのか定かではないが、「トイブック」シリーズ以降、木口木版印刷のためのイラストレーションとは異なった新たな表現の世界をつくり出したのは確かである。そして『シェイクスピアの庭の花たち』でも、砂目状の透明感のある石版印刷の表現特性を十分引き出している。また、ページを一つの大きな空間としてとらえた新しい画面の構成も試みていたのである。
現在では、あらゆるカラー原稿が、写真製版による色分解で黄、赤、藍それと墨の4色で印刷、再現されることがあたりまえだが、近代の絵本が成立していく過程では印刷版式の物理的な表現特性が表現そのものだった。印刷の特性を生かした素朴な表現が、今ではかえって新鮮で味わい深い。

クレインの生涯

ウオルター・クレイン(Walter Crane)は、1845年8月15日にイギリス、リヴァプールで生まれた。父トーマス・クレイン(Thomas Crane)は、肖像画家、ミニアチュア(写本に描く細密画)画家、石版画家として成功した画家だったが、ロンドンに移住した後健康や仕事の不運も重なり、クレインの幼年期に亡くなっている。
クレインは、幼いころから父の仕事場にある絵本や雑誌に触れ、スケッチで練習するなど早くから美術への関心を示し、父トーマスも温かく指導した。13歳で、アルフレッド・テニソン(Alfred Tennyson)の詩『シャロット姫』のページデザインを任され、当時著名な木版彫刻家ウイリアム・J・リントン(William James Linton)もクレインの能力に心を引かれるほどだった。父の死後1859年から1862年は、リントンの工房で徒弟として過ごすことになるが、ラファエル前派を代表する画家ダンテ・ガブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rosetti)やジョン・エバレット・ミレー(John Everett Millai)の彫版に携わりながら技術的にも精神的にも成長していった。
クレインにとって将来に大きな影響を与えたのは、3年間過ごしたこのリントンの印刷工房だった。リントンは、当時イギリスを代表する彫版師であり、詩人、社会主義者でもあった。クレインは彫版技術だけでなく、版木に下絵を描くデッサン力を修得していく過程で芸術そのものを学んだ。彼自身が「デザイン、素材、製作方法の間の必然的な関係−実に、芸術と工芸の間にも通ずる関係−についての見方がしっかり身についた」(註)と述べているように、少年期の工房での体験は、その後のデザイン観を形成していく上で大きな意味を持った。また、Charist活動のメンバーだったリントンを通して政治的活動にも興味を持ちはじめ、思想的影響はその後の1880年代の活動に繋がっていった。
クレインの名前は、ケート・グリナウェイ(Kate Greenaway)やランドルフ・コルデコット(Randolph Caldecott)とともに、19世紀後半イギリスの子どものための絵本誕生期の重要な作家として知られている。クレインの名を一躍高めたのは、6ペンスの「トイブック」シリーズの成功だった「トイブック」は、1850年ころから1890年ころまでに出版された子どものための絵本の総称だが、初期のものはページ数も8ページ程度と少なく、単色刷りに粗末な手による彩色がほどこされたものがほとんどだった。しかし、木口木版によるカラー印刷の技術的発展によって安価な絵本として普及したのである。この「トイブック」を代表する作家がクレインだったのである。
当時本は、中流階級のものであり、現実的に高価な贅沢品だった。庶民やその子どもたちが手にするのは、行商人が売り歩いていたチャップブック(chapbooks)と呼ばれた安く小さい数ページの小冊子だった。本はほとんどの子どもたちにとって無縁なものだった。多色刷りの新たな印刷技術の発展が、絵本を大衆に定着させる重要な契機になったのである。
「トイブック」シリーズを終える1880年代の終わりころから、クレインは児童文学よりもウイリアム・シェークスピア(William Shakespeare)やエドマンド・スペンサー(Edmund Spencer)の著作のためのイラストレーションを手がけるようになる。子どもや大人の区分を持たないイラストレーションを意識したように思われるが、想像力に富んだイラストレーションは、いつまでも子どもを魅了する力を持ち続けていた。多色石版印刷による絵本を手がけはじめたのもこのころである。同時にクレインにとっては社会的な活動に一層力を注ぐ分岐点でもあった。
クレインは、少年期から政治的活動に関心を持っていたが、ウィリアム・モリス(William Morris)との出会いによって、造形活動だけでなく思想的にも社会主義の考え方が一層明確になり、1880年代後半には行動を共にし、美術労働者のギルドの確立やアーツ・アンド・クラフツ運動に参画するなど社会的活動にも力を注いだ。モリスは、職人による手仕事の美しさが失われてしまったことを嘆いた。クレインも同様に手工芸を重んじ、活躍の場は壁紙、織物、陶磁器、家具などデザイン全般にひろがっていった。1898年には王立芸術大学の学長となり、装飾芸術としてのデザイン理論を説いた。クレインのデザイン哲学と表現スタイルは若い世代に受け継がれ、オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)やチャールズ・ロビンソン(Charles Robinson)のイラストレーションにその影響を見ることができる。
クレインの業績は著書としても残され、1889年の芸術協会での3回の講演をまとめた『書物と装飾』(邦訳・国文社1990年刊 Of the Decorative Illustration of Books Old and New 1896)は、ヨーロッパの書物と挿絵の歴史、書物のデザインの考え方や原則が述べられ、現在でも書物の挿絵研究の重要な文献になっている。

(註)『書物と装飾』(邦訳・国文社1990年刊 Of the Decorative Illustration of Books Old and New 1896)
 
「シェイクスピアの庭の花たち」『シェイクスピアの花園』マール社 2006年11月