ポーランドのアート・ポスター −その光と影−

今井 良朗

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ポーランドのポスターは、私たちが見慣れているものとは少々趣が違う。独特の表現の世界を持ち、その質も高く世界の中でも独自の地位を保ってきた。
ポーランドは、第2次大戦後長い社会主義の時代があり、ものの流通や消費の構造が違う。当然のことながら、ポスターの役割、機能も、商品の販売や宣伝を一義的な目的としたものとは相当異なっている。
ポスターのジャンルは、大きくわけると、政治ポスター、映画、演劇、音楽会、バレー、イベント、サーカスなどの文化ポスター、観光ポスター、それとキャンペーン、事故防止などを扱った公共ポスターに分類される。もちろん、販売促進を目的とした商品ポスターのようなものは社会主義の時代には存在しなかった。コマーシャリズムとも一切関係ないわけで、従って、話題性やことさら注目させるといった誇張された表現もあまり見られない。
ただ、ポスターである以上、情報伝達機能が基礎になっており、宣伝機能を全く必要としないわけではないが、むしろポーランドでは、それ以上の機能、一枚の芸術作品として機能するかしないかが問われることが多い。
ポーランドでは、ポスターは一枚の芸術作品として評価され、かかわるデザイナーも芸術家、作家としての個性を主張する。こうした傾向からか、ポスターの中でも、作家の個性が発揮しやすい文化ポスター、とりわけ映画、演劇や音楽に関するポスターが主流を占め、表現も特徴的だ。映画、演劇ポスターは、デザイナーにとっても、一般市民にとっても関心が高く、発行量の多さも他と比べて際だっている。
ポスターは、映画の場合でも広告、告知を第一の目的とするというよりは、上映のための事前の予告的意味を持ち、映画の内容に即した印象そのものを伝えようとする傾向が強く、アーティストやデザイナーの解釈に基づいて、その映画が語るメッセージやイメージを表現しようとする。1枚のポスターにすべての情報を盛り込んだ、私たちが一般的にとらえているポスターとは少し事情が違う。実際画面に配置される文字も少なく、タイトルも決して派手とはいえない。監督とどこの国の映画かなど、必要最低限の情報が提示されているだけで、あくまでも内容をイメージ化したヴィジュアル表現が主体になっている。劇場や上映期間等は、開催間際になって、文字情報を中心にした告知用のポスターとして改めて作られる。映画のイメージを伝えるアート・ポスターと、広告、告知を目的とするポスターの機能を分離させているのである。
映画ポスターを含めて、演劇、音楽会など文化ポスターは、情報を伝える機能だけでなく、大衆芸術としても人気があり、芸術の重要な一領域としても定着している。絵画や版画などと同様、ポスターは国民の日常に根ざしたアートであり、購入の対象になり、室内に飾られ観賞の対象にもなっている。
ポーランドでは、ポスターに対する関心が強い。こうした国情がポスターの環境を育て、世界の中でも独自の地位を築いてきたといえるだろう。

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では、ポーランドのポスターの独自性とは、どういうものなのか、ポーランドのポスターの表現の特徴について概観してみたい。
第2次大戦以前のポーランドのポスターを見ると、表現主義や構成主義による実験的なポスターが見られ、1920年代、1930年代には、アール・デコ様式が主流を占め、タバコ、石けん、電気製品などの商品ポスターも多く見られる。全体的には、当時のヨーロッパの表現の潮流とほぼ同様の傾向が見られる。
しかし、1945年ワルシャワがソ連によって解放され、社会主義国としてソ連の影響下に入っていくのを境にポーランドのポスター事情は大きく転換する。ポスターは、いやおうなしに国家の統制下に置かれ、厳しい検閲の下での制作を余儀なくされた。1949年以降は、美術出版局の統制下に社会主義リアリズムが強要され、説明的でイデオロギーを反映させた表現が求められた。社会主義体制を積極的に受け入れ、社会主義リアリズムに忠実な作家も登場したが、多くの作家にとっては本意ではなかった。もともと、ソ連よりもフランスなどヨーロッパの影響を強く受けてきた経緯があり、社会主義リアリズムは、必ずしも定着しなかった。1955年ごろからは、表現の強制も事実上無意味なものとなり、スターリンの死を契機にほとんど姿を消していった。
1950年代後半には、むしろ映画ポスターを中心に、対立的な概念を持った独自の表現性によるポスターが登場する。それは、私たちが日常見慣れている映画ポスター、すなわち、登場人物のポートレート、映画の一シーンを表したようなものではなく、モンタージュや詩的メタファーを多用したものであり、映画の印象や登場人物の心理描写などに表現の対象が向けられた。隠喩、換喩などを積極的に使用した表現が特徴でフォトコラージュや図像を多重に構成した実験的で意欲的なポスターが見られるようになる。モンタージュの技法が使われることで、独特の表現世界をつくり出していくことになるが、技法的には、映画の中で表現されるモチーフや手法を使い、映画の表現と同じ語法によってポスターを制作する方法である。本来映画が視覚的モンタージュ、詩的メタファーやシュールレアリスムなどの表現を内包していることを考えると、ポスターが同様の表現の語法を用いたとしても不思議なことではない。
ポスターは、映画がもつ雰囲気を喚起させそこからイメージを発展させる。ポスター作家は、映画を解釈し、映像言語を新たな視覚メッセージ、視覚表象として提示するのである。
1950年代中ごろから登場した、ロマン・チェシレヴィチュ、ヤン・レニツア、ユリアン・パウカ、ヴァルデマル・シフィエジ、ヤン・ムウォドジェニェツらがその中心的な役割を果たすことになるが、すでに主導的位置にあったヘンリク・トマシェフスキとともに、ポーランド・ポスターの新しい形を作り出していった。ポスターは、宣伝広告としての機能から、より美術作品としての機能が注目されるようになり、絵画的な表現によるアート・ポスターの新しい形式が定着していったのである。それは、イラストレーションとしての表現に価値を見いだすものであり、作家の個性を前面に出すものだった。
このような新しい形のアート・ポスターは、海外でも注目されるようになり、やがて「ポーランド派」と呼ばれ、ポスター作家とともにデザイン誌などに紹介されていった。もっとも、ポーランド派のポスターは、表現のスタイルや主義主張というよりは、作家の表現に対する姿勢や方法論に起因するものであり、その結果生じるアート・ポスターの新しいかたちと表現傾向の共通性を定義するものと見るのが自然だろう。
「ポーランド派」の呼称は、1950年代後半から1963年ごろまでのポスターを対象とするが、この時期のポスターは、ポーランドにアート・ポスターの独自のジャンルの基盤をつくるとともにその後のポーランドポスターの方向性を示すことになった。
一方で、若い世代の中に絵画的ポスターに対する反発が無かったわけではない。欧米や日本がこの時期に形成していたポスター・デザインの特徴は、近代デザイン=モダン・スタイルであり、若い世代の何人かは、同時代的共通の基盤からポスターの表現をデザインの視点からとらえ、積極的に海外の動きに呼応した新しい可能性を模索する動きもあった。マレク・フロイデンライヒ、レシェク・ホウダノヴィチュ、スタニスワフ・ザグルスキらは、タイポグラフィや写真を重視し、印刷の特性を生かした、よりデザインを意識した構成を試み、現代デザインとしてのポスターを目指した。
いずれにしても、1960年代は、ポーランドのポスターが主要なメディアとして社会的にも定着し、国際社会でも高い評価を受けるようになっていった時代である。
国策からポスターを国家が管理する体制は、結果的には安定した制作と発行を保障することになり、国際的な評価も後押しし、作家を保護、支援する形をとるようになっていった。具体的には、K.A.W.(前身はW.A.G.)というグラフィック部門に関する組織があり、ポスターはすべてここで制作され管理される。グラフィック・デザイナーを含む数名の委員で運営され、ポスターの企画からデザイナーへの依頼、審査などが行われる。年間を通じた表彰制度もあり、ここで制作されたポスターは、最も多かったときには、年間360枚ほどに及んでいたといわれる。アーティストにとってもグラフィック・デザイナーにとってもポスターは、自己の表現を競う格好の場になっていたのである。
国家的な支援は、コンクールや展覧会の開催につながり、1955年にスタートしたポスター・コンクールが1965年の「ポーランド・ポスター・ビエンナーレ」となり、1966年の「ワルシャワ・国際ポスター・ビエンナーレ」へと発展していった。このビエンナーレは、権威あるポスターの公募展として世界的にも知られている。また、ポーランドでは、国立ワルシャワ美術館の分館として1968年、ワルシャワの郊外ヴィラヌフにポスター・ミュージアムを創設するなど、いち早くポスターを社会的な資産として収集、保存の対象にしてきたこともよく知られている。
「ワルシャワ・国際ポスター・ビエンナーレ」は、日本からの応募も多く、入賞者が開催国に次いで多い年もめずらしくなかった。
ビエンナーレは、ポスターの国際的な舞台になっていくが、第1回が開催されたこの時期は、世界的な傾向として、社会変革、大衆社会を意識した新しい文化の動きなど、流動的で大きな変化を予感する時代でもあった。既存の芸術、文化に対する批判と変革を求める動きが一気に高まっていたのである。カウンター・カルチャーと変革への動きは、欧米、日本など連鎖反応的に巻き起こった世界同時発生的な出来事だった。そこには、政治や体制に対する不満もくすぶっていた。主役は学生を含めた若い世代であり、演劇、映画、音楽の分野でも既成の枠を打破しようとする新しい表現の傾向が台頭していた。
ポーランドでは、ヤン・ヤロミル、イエジ・チェルニァフスキ、ヤン・サフカ、エウゲニゥシュ・ゲト・スタンキュヴィチュらが、既存の体制に対する挑戦をアンダーグラウンド演劇、音楽、映画とのかかわりの中で表現することを試みた。表現の特徴は、イラストレーションによる表現を再び前面に打ち出し、演劇や映画の前衛的表現と同化させつつ、人間の内面に潜む幻覚や深い欲望としてのイメージの形象化を意識的に表出させようとするものだった。それは、作家の中に形成されるイメージに支配されながら、一方で作家の意識を超えた人間や社会の内側にある不条理をあらわにするものであり、大衆の中に蓄積されたやり場の無いエネルギーの表現のようにも見える。
シュールレアリスムの影響が再び感じられるこれらのイラストレーションによるポスターは、ポーランド派が掲げた作家の個性の徹底した探求という点では共通性を持っていた。ただ明らかに異なる点は、演劇や映画の題材を比喩的、象徴的に表現する中に、社会の不条理や痛烈な社会批判を内包させたことだろう。
このような70年代の顕著な表現の特徴は、1980年自主労組「連帯」の結成以後、戒厳令による政情不安と経済的危機という不安定な社会情勢の中に継続されていった。
ヴィクトル・サドフスキやヴイエスワフ・ヴァウクスキの、外界の現実を異質な文脈からとらえ、人物に重ね合わせたグロテスクとも思えるイラストレーションの表現、人物の描写に不気味に静かな陰を感じるスタシス・エイドリゲヴィチュスなど、1980年代のポスターには、社会的、政治的影響が色濃く感じられる。

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ポーランドのポスターを見ていくとき、社会体制や政治的な影響を抜きにしては語ることができないだろう。第2次大戦以前は、ナチスの支配下にあり、戦後は、ソ連の大国主義の影響下に置かれてきた。精神的抑圧を受けながら培われてきた、体制への抵抗、民主化を求める動きは、個の解放を願う強い意識として働いていたはずである。
ポーランドのポスターには、こうした社会的背景が常に横たわっており、それがポスターを表現する大きな力になっているように思えてならない。政治に翻弄されるがゆえに強烈に個を意識し、作家も自己の中に内在する問題意識と演劇や映画のテーマと同化させながら表現を追及する。もちろんそれは、単なる作家個人の中に限定されるテーマでもなければ、単なる内面の描写でもない。ポスターに描かれる世界は、ポーランドの人々を取り巻く日常そのものであり、現実でもある。だからポスターは、大衆に受け入れられ、絵画と同等かあるいはそれ以上に、大衆芸術、国民的なメディアとして発展し定着してきたのだろう。それだけに、ポスターに対する思い入れも並々ならぬものがあり、作家にとっては、表現思想や表現主張も含めて、個を表出させる重要なメディアになっている。
ポーランドでは、ポスターはむしろ版画の概念に近い。その結果、アートとしての性格が強いポスターは、表現の上でも社会的な機能としても独特の世界をつくりだしてきたといえるだろう。ポーランドのポスターには、海外の影響を受けながらも、ポーランド独自の方法論に回帰しようとする動きが各時代を通じて感じられる。
世界的なコンクールであるワルシャワ・国際ポスター・ビエンナーレには、世界中のグラフィック・デザイナーの作品が一堂に会する。当然、ポーランドの作家がさまざまな形で世界の影響を受けても不思議ではない。事実、影響も見られるし、よりモダン・デザインを志向してきたデザイナーもいる。表現の多様さや多彩さにおいて日本や欧米と確かに変わらない。
しかし、それでもポーランド派以来、独自で独特のポーランドの表現性が前面に出たポスターが圧倒的に支配している。それは、今日なお変わっていない。
1989年、国会で「連帯」のマゾビエツキ首相が承認され、社会主義国で始めて非共産党員の首相が誕生して以来、確かに、ポーランドの国情が大きく転換し、ポスターを取り巻く環境も変化したことは事実である。1990年代に入ってポスター制作の環境は一変した。制作が国の管理下から離れ、制作と流通のシステムを見失い、極度に制作枚数が落ち込んだ時期もある。制作の場を失い、ニューヨークやパリなど国外に活躍の場を求めたデザイナーも多かったと聞く。また、自由市場経済の導入と並行してアメリカの映画や文化が一気に流入した。若いデザイナーは、とりあえず仕事の場を確保するためにこれまで無かった商品ポスターを手掛けることが多くなった。
1996年にワルシャワを訪れたときも、街の広告塔には、日本で見慣れたハリウッド映画のポスターと全く同じデザインのポスターが目を引き、商品の広告のためのポスターも街角のあちこちで見られるようになった。看板にも英文が目立ち、ロシア語を見ることはほとんど無かった。ソ連に対する憎しみの根の深さが人々の生活の中から感じ取られる。ことポスターに限って言えば、街には類型化した表現のポスターがあふれ、ポーランドらしいポスターはあまり見かけられなかった。明らかに、時代の変化と状況の変化がそこにはあった。
しかし、ポーランドは、芸術に関する伝統も古く、歴史的にも重要な役割を果たしてきている。こうした伝統、文化的豊かさに対する認識は高く、人々の国を愛する気持ちも際立って強いように思われる。戦火で破壊された町中の城壁をそのままの形で残していことする姿勢や、破壊された旧市街を再開発せず元の状態に復元するところに、歴史観や伝統に対する認識の違いを強く感じる。
ポーランドのアート・ポスターは、国家管理から民間の出版社やギャラリーに発行主体が移行し、ようやく軌道に乗り始めたばかりである。ポーランド派の延長線上にあるアート・ポスターは、消えたわけではない。新しい社会システム、新しい制作環境の中で、確実に、また着実に新たな力をつけているようにも思える。
私が訪れたワルシャワのポスター・ギャラリー“GP”(Galeria Grafiki i Plakatu)では、展示を通して宣伝し作家の活動を支援している。そこには、歴史的なポスターのコレクションもあり、販売も行っている。店員が一枚一枚のポスターを解説してくれる姿には、ポスター文化に対する誇りが感じられ、一定のリズムでポスターをめくっていく凛とした姿勢と動作は、感動的ですらあった。
“GP”を出るとき、「今は、アメリカの文化、それにアメリカ的なポスターに押され気味ですが、長くは続かない。以前のようなポスター文化として落ち着くときが必ずきます」案内してくれた、シフィエジのお嬢さんであり、日本文化にも造詣が深いドロタ・マルシャウスカさんの言葉が印象的だった。

「ポーランドのアートポスター−その光と影−」『ポーランドアートポスター展』展覧会図録
武蔵野美術大学美術資料図書館 1998年11月