絵本の表現

今井 良朗

絵本の表現とは

絵本の表現、とりわけイラストレーションについて考えるとき、子どものためなのか、そうでないのかという問いに直面することがある。
イラストレータは、しばしば子どもだけを意識しているわけではないという。しかし、それはほとんどの場合子どもの絵本に対して、大人の絵本が別に存在することを意味しているわけではない。ところがこうした現実が視覚表現として見たときの絵本の位置を時に不明瞭なものにしている。
絵本のイラストレーションは、一つの絵として見る限り他の視覚表現とのはっきりした区分など見られないし、対象を意識した年齢的な境界をことさら感じることもない。にもかかわらず、絵本は子どものために出版されているという現実は変わることなく続いている。絵本作家もまたそうした場を否定しない。絵本におけるイラストレーションの特殊性とは正にそこにあるのだろう。
絵本は子どもの本であるがゆえに確固とした一領域を築いてきたことは事実である。一方で読者は世代を越えてひろがり、そのこともまた許容されている。むしろ最近では、子ども以外の読者層によって支えられているところも大きい。考えてみればとても不思議なメディアだといえる。
ここでは二つのことについて考えてみる必要があるだろう。絵本に描かれる世界と絵本というメディアとしての構造である。どちらも絵本そのものを決定づけているが、この両方を関連づけて見ていくことが絵本を解きあかしていく手がかりになるように思えるからだ。
描かれる世界は、作家のテーマや思想と深く関わり、絵本の構造は、読み手との関係をつくり出していくための媒介物として作用する。それぞれ子どもの世界、子どものための本として、「子ども」が重要なキーワードとして扱われるが、問題は、絵本の周辺で扱われる「子ども」のとらえ方は、必ずしも同じではないことだ。
絵本を通してみる子ども観は、つくる側にとっても受容する側にとっても立場が変われば見方が異なる。どうも絵本における「子ども」は、多様な使われ方をするあまり共通言語として機能しないことが多い。「子ども」に対する意識のズレや認識のズレをいつも伴っている。その結果時には「子ども」に対して過剰なまでに保守的にもなる。
絵本の表現性を問題にするとき、おそらくは、子どものためとか、そうではないとかを論じること自体あまり意味のないことであり、むしろ共通言語でない「子ども」の解釈や使用法によってかえって混乱を招いていることもある。絵本は子どものための本というより、子ども的世界に寄り添った本と見る方が分かりやすいのかもしれない。
いずれにしても、絵本が他のメディアと異なり、対象を「子ども」を中心にしているのだとすれば、その「子ども」に内在する心的世界そのものに注目し、表現との関係をもっと明らかにする必要がある。そして、本の構造という観点から「子ども」との世界をつなぐ方法論や組み立て方、コミュニケーションの手法にも注目するべきだろう。
モーリス・センダックの言葉は、絵本におけるイラストレーションの問題を考える上でいつも示唆的である。「人間は生きている限り−子どもだけでなく、大人の場合も−常に空想(ファンタジー)を編み続けているものだと私は思っているのです。しかし私たちは、それが幼い子どもの未熟な精神にしかふさわしくない馬鹿な遊びででもあるかのように、空想を子どものものと決めつけてしまいたがります。−中略−空想は子どものために書くすべてのものの核であるだけでなく、あらゆる本の、あらゆる創造行為の、そして多分、生きることそのものの核でもあると思うのです。」とヴァージニア・ハヴィランドとの対話(『センダックの絵本論』モーリス・センダック著・脇明子、島多代訳 岩波書店 1990年)の中で述べている。センダックが見ている世界、絵本に描こうとしている世界を端的に表すと同時に絵本の独自性と特殊性を示している。
子どもは基本的に無邪気で純粋であっても、狂気も邪気も合わせ持っている。また現実と非日常的な世界、空想の世界を自由に往来することをいとも簡単に楽しんでいる。しかしこうした行為は、必ずしも子どもだけが持ち合わせているものではない。誰もが内包し持っている世界である。ただ、年齢を重ねるとともに知識が蓄えられ、社会的規範や秩序の中で、自由な表出、表現の方法を失っているに過ぎない。
アーティストとは、周りの世界に敏感に反応し、詩的言語を紡ぎ、自己の内的世界を自由に表出したり、表現したりする方法、技術を知っている人たちである。そして絵本を描くイラストレータは、意識的にしろ無意識的にしろ、また強弱の差はあれ子ども的世界に寄り添ったところで描いているように思う。そこから独自の世界を創り出している。絵本をつくる作家の中にある詩的世界は、「子ども」と同化する心的世界であり、時には、作家自らの中にある「子ども」の心的世界に近い感覚の表出でもあるからだ。
優れた絵本として読みつがれてきたものは、どれも「子ども」の言語や規範を基盤に成り立っている。もちろん、読者が子ども以外の大人であってもそれは構わないことなのだが、ただそこでは、「子ども」との世界をつなぐ方法論によって組み立てられているということに重要な意味がありそうである。
現に「子ども」と関わりのないところで、イラストレータの個性を前面に出した絵本が、子どもだけでなく若い世代からも支持されることなく消えていったものは数限りなくある。イラストレーションの魅力だけで絵本は成り立っているわけではないのだ。そこに描かれている独特の「子ども」の世界が絵本というメディアを決定づけている。

絵本の生成

河合隼雄は、現代人の病理として「すべての言語を科学的言語のようにきめこんで考えたり、感じはじめた」ことによる「関係性」の喪失を挙げている。「自分は何ものなのか、自分と世界はどのように関係するのか、このような主観的な問いに、科学的言語は答えない」という。(『イメージの心理学』河合隼雄著 青土社 1991年)詩的言語は、科学的言語の対極にあるものであり、本来誰もが持ち続けるものである。センダックのいう「生きることそのものの核」になる言語でもある。絵本が紡ぎだす独特の世界は、現代人が失いつつある詩的言語の世界でもある。
子どもの心的世界を支配しているものは、子どもだけの特権ではなく、大人も持っているものであり、強く支配しているかどうかの違いである。それは絵本をつくる側にも読む側にもいえることで、まさに絵本を支配している言語といえる。絵本を読んだとき、子どもにとっても大人にとっても心的世界を刺激されることに変わりはない。詩的世界といえるものは、河合がいうように自己のアイデンティと密接に関わっているからだ。
絵本の表現を考えるとき、人の内奥にある感覚や感情を抜きにしては考えられない。言葉とともに絵本に描かれるイラストレーションは、決して単なる対象の客観的な描写ではないし、言葉の絵解きでもない。確かに人は、言葉によるコミュニケーションで補いきれないものを、絵や図像によって表してきた。しかしイラストレーションには、目に見えないもの、未知の世界も含めて、見ることのできない精神世界に向けて働きかけるファンタジーの世界を描き出す力がある。そして、それは言葉と響きあって成り立っている。
絵本が描き出してきたものは、一貫して詩的言語の世界であり、より子どもの世界に寄り添うことで独自の表現を切り開いてきたといえるだろう。それは言葉が主、絵が従、あるいはその逆といった関係ではなく、どちらも欠かせない要素としてある。それはある意味人の最も原初的な表現の形であり、コミュニケーションの形でもある。人は会話するとき、相手の言葉とともに顔の表情や身振りから言葉に表されていないことを感じとったり感情の交流を感じたりすることがある。また、相手の言葉で示されたものに対してイメージを重ねる。頭の中に想起するイメージは必ずしも明確な形を持っているわけではないが、そのことによって会話に支障をきたしたり、途切れたりはしない。コミュニケーションは、言葉だけで、あるいはイメージだけで成立しているわけではないからだ。
コミュニケーションは、自己の表現とも密接に関係している。絵本に描かれるイラストレーションの世界は、単なる情景の描写ではない。作家が何事かを語りかけるための表現である。それは作家が語りかける言葉ではあるが、子どもたちが遊びや空想の世界で、自由に言葉を発したり、イメージしたりしながら想像を膨らませるのと通底する世界でもある。
絵本が対話性に富んだメディアなのは、絵本それ自体がコミュニケーションのための言語として作用しているからだろう。それは、情報や知識の交換ではなくもっと素朴な感覚や情動の世界で作用している。
センダックは、絵本の表現をよく音楽に喩える。詩に曲をつける感覚に近いというだけでなく、絵本が奏でる音楽は、見えないものの表現も意味するのだろう。
音の連続がまとまったものは、メロディーとなり、心地よい音楽になる。空気の動きのまとまりは、風となりさわやかさとして感じることができる。絵本を見る、読むということは、決して視覚的なことばかりを指すのではない。読み手は身体全体で感じとる。絵本から受ける感覚情報をまとめるのは、主体である読み手そのものなのだ。絵本が表す世界は、見えないものも含めた一つの「まとまり」であり、読み手は、ただ読むだけでなく積極的な参加者にもなるのである。
絵本は、子どもの本であることや表現がシンプルで分かりやすいといった側面から、「子ども」のための方法論が初歩的で稚拙なものととらえられやすいこともある。視覚表現の分野でも子どもの本というだけで軽く扱われることも多い。しかし、実際には多様な要素を高度に総合的に編集し表現されている。最後の形は余分なものがそぎ落とされ、抽象化が施されているに過ぎない。言葉が語ること、イラストレーションが語ることを極限まで突き詰めているのである。それだけ対象と向き合い丁寧に考えられ表現されているということでもある。
分かりやすい絵の本、識字教育の前提といった狭い枠組みに閉じこめるのではなく、もっと素直に絵本を楽しみたい。絵画や彫刻を自由な情感で楽しんだり、文学の行間にイメージを重ねたりするように。そうすれば言葉とイメージの境界を越えた絵本の世界が見えてくるはずである。
絵本の表現特性とは、「子ども」を対象にしてきた結果、原初的な表現の形を失わず保ってきた所産といえるものなのかもしれない。
現代が科学的言語に支配され、人と人、人と周りとの関係性が喪失しつつあるのだとすれば、詩的言語から紡ぎだされる表現が世代を越えて受け入れられたとしても不思議なことではない。絵本それ自体が豊かで奥深い内容を伴って立ち現れるとき、私たちは心の奥底にある「子ども」を意識し、感覚が刺激され、自らの心的世界を重ねる。それが絵本の魅力であり、表現の本質が変わることなく生き続けてきた理由なのだろう。

絵本表現のカタチ

どのようなメディアにも固有の特性がある。それがそのものを示す「カタチ」である。カタチは、表現される内容とともに器である構造も表現される内容と密接に結びついている。印刷され、綴じられた一冊の本であることが絵本の表現を決定づけている。絵本のカタチとは、複数の見開きの空間が時間の経過、物語の流れをつくりだし、一冊全体で表現されてはじめて、その本のもつイメージが浮かび上がってくる。言葉と絵、色彩、造形性などが相互に結びつき、関係づけられて成り立っているのである。
そして、ページを繰ることが時間と空間を変化させていくのに重要な役割を果たしている。イラストレータは、次画面への移行、物語が展開していくプロセスで絵と絵のつながりや視線の流れを工夫している。それが一枚の絵画との違いであり、その結果挿絵を描く画家とは異なる独立した絵本作家を登場させてきた。
また絵本では、作者が伝えたいことをどのような形にしてどのように伝えるかを考える時、自ずと身体性をともなう。ページを繰る時に発生する紙のこすれる音や紙を触った感触、視線の流れや空間への身体的関わり、これらすべてを含めて立体的にとらえられる。そして読み手は、ページを繰る行為、身体との関わりにおいて感覚的にとらえ、無意識のうちに奥深い内容にまでかかわっているのである。
絵本は、時間をともなう表現であるために、視覚言語や視覚コミュニケーションの本質に触れる表現手法を発展させてきた。さらに身体的で全感覚的な対話の場をつくり出すためのさまざまな実験が行われてきた。このような手法はおのずと、デザインや映画の影響を受けることになり、映像的なモンタージュの作用や視点の動きなどの表現手法を試みてきたのである。
他の視覚表現と比べてあまり注目されてこなかったのは、子どもの本ということもあったのだろう。しかし1920年代以降、絵本は同時代の視覚芸術における実験的な方法論を積極的に取り込んできたのである。心理学の発達による空間と時間の一体的な認識、感情や内面の表出、テクスチャーの表現や抽象形体への関心、拡大視、微視、錯覚視、視点の意識などいずれも現代の視覚芸術に見られるものであるが、これらは、現代の絵本の中に頻繁に用いられるようになり、子どもたちの感覚に働きかけている。
あらためて見ておかなければならないのは、絵本は本であることと、そのための技術や方法、思想が総動員されていることである。絵本はこうしたさまざまな要素によって紡ぎだされ編まれたものなのである。
絵本の構成やレイアウトは、本と同様デザイン上のものである以上に、人の身体の活動と切り離せないものであり、人の知覚と深くかかわっている。人と本との直接的な関係を意図的につくり出す、絵本は、そのような方法論から成り立っている。だからこそ作家それぞれの世界を楽しむことができる。同時に、読み手はそこに積極的に参加していくことで、そこに描かれた世界に自らの世界を重ね合わせて、描かれたテーマを、ストーリーを読み解いていくことができる。
このように見ていくと、絵画を鑑賞するように絵本の原画を鑑賞することと絵本を楽しむことは基本的に意味が違う。絵本は1冊全体で成り立つものであり、本全体として計画される。いわゆるブックデザインとしても成立しているからである。
絵本は、複製、すなわち印刷され本として出版されたものを読者は手にするのであって、美術館やギャラリーで展示される絵画や版画とは性格が違う。
絵本のために描かれる原画(原稿)は、一通りではない。油彩、水彩、色鉛筆など普通に考えられるものだけでなく、黒い絵具やインキだけで描かれ、印刷工程で色彩が入って完成するもの、さらには、パソコン上で描かれそのまま印刷物になっていくものなど多岐にわたっている。描く行為は、あくまでも絵本に至るプロセスの中に位置づけられる。一枚の絵画との違いは、印刷され本となることを前提に描かれていること、そして、全画面との繋がり、関係を意識して描かれていることである。原画を鑑賞する楽しみは、ただ絵画として楽しむだけでなく、連続した展開の中に作家の思考のプロセスやイメージと言葉が織りなす世界を垣間見ることも含まれている。
美術やデザインの分野では、絵本というと絵を描くことにこだわりがちだが、絵本の制作は、言葉を構成し絵を描くことだけでなく、絵本を成立させるすべての要素を総合的にデザインすることとしても考えられなければならない。海外では、絵本の制作はデザイン学部で学ぶことが一般的で、美術学部に絵本のためのカリキュラムを置くことはめずらしい。そもそも本をつくるということ自体デザインの手法を必要とするわけで、デザインの方法論は絵本には欠かせない。武蔵美出身の作家が絵画系だけでなく、デザイン系に多いことも偶然のことではない。
また、日本には絵本作家という固定した職域があり、大半の絵本はこうした専門の作家によって手がけられることが多いが、欧米ではさまざまな分野のクリエイターが手がけた絵本も沢山ある。絵本作家として知られていても、アニメーション、グラフィックデザイン、テキスタイル、舞台美術と幅広い活動をしていることもめずらしいことではない。
絵本の表現はもっと自由な表現の環境に置かれるべきである。「子ども」を規定し過ぎるあまり「子ども」から遠ざかることもある。周辺領域を横断しながらさまざまな表現手法を取り込む親和性も絵本表現の特徴である。そのためにも、さまざまな分野から絵本の表現が出てきていいはずだ。絵本それ自体をコミュニケーションのための言語ととらえたとき、絵本の可能性はさらにひろがっていくだろう。