今井良朗
人,書物,絵本がつながっていく
絵本を「しごと」として接するようになって50年ほどになるが,子どものころは伝記や児童文学がほとんどを占め,絵本はそれほど読んではいない.ジュール・ヴェルヌの『15少年漂流記』を何度も夢中になって読んだことを憶えている.グリム童話全集とアンデルセン童話全集はいつも側にあったし,『キュリー夫人伝』をはじめ伝記も随分読んだ.少年雑誌や漫画も当然欠かせなかった.
振り返ってみて面白いのは,伝記の表紙に描かれた肖像画がその後ずっとその人物像として定着していたことである.キュリー夫人はもちろん,エジソン,リンカーン,野口英世,豊臣秀吉,徳川家康などなど,名前が出ると頭の中に浮かぶのはある時期までは,子どものころにイメージとして定着した同じ像だった.
一方で『15少年漂流記』を振り返ると,そこに挿絵があったかどうか憶えていない.ただ,表紙の真ん中に帆船が描かれていたのは記憶している.イメージを辿っていくと,筏のようなものにつかまる少年たちが浮かぶ.しかし,筏の形状も少年たちの顔も明確ではない.それでもイメージされるものはある.イメージすること,それを繋ぎさらにイメージを膨らませる.子どものころだれもが経験することだが,それは年を経ても変わるものではない.この想像を膨らませ創造していく行為に対する関心が,その後絵本に魅かれ教育や研究に結んでいったのだろう.
このように見ていくと,現在の絵本への関心や研究が必ずしもイラストレーションだけでないことも,子どものころの経験と結んでいるように思えるから不思議だ.むろん,絵本が「しごと」になったきっかけはある.武蔵野美術大学美術資料図書館で絵本を重点的に収集しようという話が出て,その収集を手伝ったことからだ.今も毎年開催されている日本橋丸善の世界の絵本展のために,世界中から集められた3,000冊以上の絵本のすべてに目を通すことからはじまった.店頭に出る前に数日かけて段ボール箱を一つずつ開けていった.毎年そこから収集する絵本を選んでいったのだが,膨大な量の絵本を見続けていたことが,現在まで絵本の表現について研究することに繋がってきた.
その時,国ごとの表現の違いはもちろん,表現の多様さと多彩さに圧倒された.特に印象的だったのはイラストレーションがさまざまな技法や手法で描かれていたことと,分野の広がりだった.ABC Bookや知識絵本と呼ばれるものも,表現方法,編集の仕方が工夫され,それまで絵本に抱いていた印象を根底から覆された.その後1976 年に縁あって雄松堂書店から19 世紀末のイギリスを中心にしたヨーロッパの絵本を一括して購入した.ここから武蔵美の本格的な絵本収集がスタートした.
私の専門分野はヴィジュアル・コミュニケーション・デザインで,当時の研究テーマが印刷論やブック・デザインだったこともあり,まずそこから手をつけた.一方で,武蔵美の収集方針を明確にするために本格的に絵本研究をはじめた.このとき選んだ文献の一つが,バーバラ・ベーダーの『American Picture books from Noah’s ark to the Beast within』,今考えるとこの本を初期に読んだのは幸運だったように思う.1940 年代から60 年代のアメリカの絵本から入ったことによって,実験的な視覚表現の問題を考えることができたからだ.また,ヨーロッパの研究書と比べると,デザインやコマーシャル・プロダクトについても積極的に書かれていた.自分自身がデザインの領域ということもあったが,この文献によって,デザインの観点から絵本を見ていくことが有効だと確信するようになった.また,当時日本では視覚表現やデザインの視点から絵本研究がほとんどないことにも驚かされた.こうして絵本との長いつき合いがはじまったが,いまなお絵本の奥深さをますます感じている.
書物の誘惑
書物に魅せられる最初の縁は,書誌学者庄司浅水先生を通して個人所蔵の稀覯本を見せてもらったことにはじまる.庄司先生は授業のために毎週2,3冊蔵書を持参された.大学卒業後研究室に残っていた私は,授業準備の手伝いをしていたのだが,毎回持参される資料を見ることがこの上なく楽しみだった.14世紀の彩飾書写本,枚葉だがグーテンベルクの42行聖書,ケルムスコット版『チョーサー著作集』(図1),嵯峨本などなど.その後自宅の書斎に行くことも許され,書棚から出しては一冊ずつ書物の持つ物質感,活字と挿絵の美しさを味わうことができたのは,当時はとても贅沢なことだったと思う.
当初は印刷との関係で活字組版,タイポグラフィ研究を中心に進めていた.夏の休暇を利用して稀覯本の宝庫として知られる奈良県の天理大学附属天理図書館にも出かけた.インキュナビュラ(15世紀後半のヨーロッパ初期活字本),キリシタン版,16世紀末から17世紀にかけて出版された日本の古活字本,宋版などを閲覧するためである.1930年に建てられた図書館は,内部はうす暗いが独特の雰囲気を醸しだしていた.閲覧には紹介状が必要であり,1日に閲覧できる冊数も限定されていた.稀覯本は一冊ずつ桐の箱に収められ,そこから取りだし閲覧する空間にいるだけで異次元に誘われる思いだった.書物を手にする感覚は,ときを超えてあたかもその時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えたものだ.
その後神田の天理ギャラリーで定期的に蔵書が展示されることを知り,たびたび訪れることになるが,いつからか,活字以上に書物の挿絵に強い関心を持つようになっていった.この頃,中世から近代の活字本を見ていく一方で,同時に世界の現代絵本を毎年数千冊単位で見ていたことも影響したのだろう.
19世紀末の挿絵本の魅力は,木版や銅版,石版によって印刷された挿絵である.印刷技術の表現特性からくる独特の版画表現は現代の絵本には見られないものである.技術と表現は密接に関係するが,これほど細部や色彩の表現の探究が貪欲に行われた時代もないだろう.
絵本と関わりはじめた当初から,初期挿絵本と現代絵本を同時に思考してきたことが,絵本を見る眼にも,現在の研究にも繋がっている.欧米の現代絵本を中心にはじめた収集は,その後19世紀以降の欧米の歴史的な絵本の本格的な収集に発展し,現在は奈良絵本や江戸期の絵草子の収集にまで及んでいる.
この間,1977年「現代欧米の絵本展−その表現の変遷」,1982年「欧米の絵本の歩み展−コメニウスからセンダックまで」,1993年「絵本の視線と空間展」,1997年「絵本とグラフィックデザイン」,2001年「絵本と印刷技術1687−1933 表現が先か?技術が先か?」,2005年「絵本におけることばとイメージ展」,2007年「ムサビと絵本展」などの展覧会の企画に携わってきた.
絵本の収集過程で,瀬田貞二氏の助言や激励も心強かった.瀬田氏は絵本研究の第一人者として知られ,自らも貴重な歴史的絵本の収集家だった.今でも思い出されるのは瀬田氏の並々ならぬ絵本への情熱だった.国立駅の近くに銀杏書房という欧米の絵本を取り扱う古書店がある.1977年の秋だったと思うが,銀杏書房が買い付けてきた19世紀末から20世紀初頭の絵本内覧会に瀬田氏と同席する機会があった.会場は銀杏書房店主だった高田和氏の自宅だったが,所狭しと並べられた百冊ほどの絵本を一日がかりで目を通した.
瀬田氏は一冊ずつ丹念に目を通し,それぞれに評価を加え,時には丁寧に解説をしてくださった.このとき美術資料図書館の絵本収集の視点を高く評価され,公的機関に絵本全般を見通せるコレクションが確立することに期待を寄せられた.銀杏書房は絵本の収集に欠かせない場所だったが,高田氏と書店でお茶を飲みながらの絵本談義がいまでは懐かしい.
不思議なことに,一見関係なさそうなこともどこかで繋がっている.もともとの専門であるヴィジュアル・コミュニケーション・デザイン,印刷論を出発点に,日本橋丸善の世界の絵本展もそうだが,さまざまな人との出会い,印象深い絵本,図書館,古書店などが点と線でつながり,いまでは多層的な面となって自ら絵本を楽しむ空間になっている.
グラフィック・デザイナーの絵本
『エディトリアルデザイン』世界のグラフィックデザイン 6(講談社)が1975年に出版された.グラフィック・デザインを分野別に7冊に体系づけた内の1冊である.ブック・デザイン,雑誌デザイン,年鑑などのダイアグラムなどに加えて,グラフィク・デザイナーの絵本が数ページにわたって掲載されていた.紹介していたのは福田繁雄氏だが,ソール・バス『アンリくんパリへいく』(1962),レオ・レオーニ『あおくんときいろちゃん』(1967),イエラ・マリ『あかいふうせん』(1970),ブルーノ・ムナーリ『白と赤の読めない本』(1953),『霧の中のサーカス』(1968),ポール・ランド『ぼくはいろいろ知ってるよ』(1956),ウォーリャ・ラヴァター『赤ずきん』(1965),福田繁雄『ロミオとジュリエット』(1963)が紹介されていた.そこから,グラフィク・デザイナーが思っていた以上に多くの絵本を手がけていることを知った絵本表現の多様性は承知していたつもりだったが,あらためてグラフィック・デザイナーの絵本に魅力を感じたのはそのときだった.ちょうど,グラフィックからヴィジュアル・コミュニケーション・デザインに思考の傾向が変化していた時期であり,ギオルグ・ケペッシュの『視覚言語』(Language of Vision 1944)がデザイン教育の現場に定着していたころだ.視覚理論,時空間理論を前提に視覚表現を新しい方法論で展開しようとしたことが注目されていたのである.
ここで紹介されていたデザイナーとその絵本は,当時のコミュニケーション・デザインの考え方に符合することが多く,自分のなかでも腑に落ちていった.このころから視覚言語を手がかりに,グラフィック・デザイナーの絵本を探すようになり,大学の図書館にも集まり始めた.
その頃,デザイン雑誌『アイデア』(誠文堂新光社)やスイスのデザイン雑誌『GRAPHIS』が頻繁に絵本を取り上げ,『GRAPHIS』は定期的に絵本特集号も刊行していた.そして,1959年 季刊『グラフィックデザイン』の創刊号(芸美出版社,5号からダイヤモンド社,30号から100号の最終刊まで講談社,勝見勝編集,原弘アートディレクション)に原弘先生がすでに「デザイナーの絵本」を紹介する記事を掲載していたことを知った.
紹介されていた絵本は,ベン・シャーン『梨の木にすむいわしゃこ』(1951),『オンス,ダイス,トライス』(1958)(図2),ウイリアム・ワンドリスカ『いろいろなものの音 』 (1955),ブルーノ・ムナーリ『動物市場』(1957),『ティク,タク,トク』(1945),『緑の手品師』(1945),アン・ランド,ポール・ランド『こまと火花』(1957),『ぼくはいろいろ知ってるよ』(1956),アントニオ・フラスコーニ『ジャックのたてたお家』(1958),『みて,いってごらん』(1955),ジョゼフ・ロウ『大きなチーズ』(1958).
デザイナーが,視覚によるコミュニケーションの可能性を絵本に見いだしたころである.いずれも著名なデザイナーであり,そんな彼らの絵本制作は,それまでの仕事とも異なり,興味深いものばかりだった.彼らは形や色そしてタイポグラフィを構成するだけでなく,経過する時間と空間の変化を意識し,動きや時間の経過を一冊の本として表そうとしていた.絵本をテキストと絵の入った子どもの本というよりは,総合的なデザインの対象として,さらには読み手の知覚に訴えかけ,もっと心の奥深いところで認識できるような表現を模索していこうとしていたのである.読者の知覚を意識した表現は,簡潔,明瞭で,表現も装飾的なものより,単純で明快な形と色彩による構成が特徴だった.
1959年にアメリカとイタリアのグラフィク・デザイナーによる絵本が原氏によって紹介されていたことにも驚いたが,それ以上に日本の絵本に対する評価のギャップを痛切に感じた.『グラフィックデザイン』の中で,原氏は「外国の絵本を日本語に置き換えると,タイポグラフィの構成が全然ちがってくるので,原作から遠いものになってしまう」と述べ,デザイナーの絵本を紹介したのは,その魅力と共にイラストレーションからタイポグラフィまで,グラフィックな表現のすべてをデザイナーが手がけていることによる完成度を挙げている.
違う見方をすれば,絵本にデザインの観点が導入されていないことを憂えているのだが,その後20年を経た80年ころでもデザイナーの絵本に対してまだまだ偏見があったように思う.「デザイン的な絵本」といういい方があるように,絵本とデザインというと絵本の中の一ジャンル,特別のジャンルと考えがちだがデザインの考え方はどのような絵本の中にも含まれている.絵本とは,コミュニケーションのための媒介作用を行うもの,ととらえれば視覚言語,コミュニケーション・デザインから考えることも不思議なことではない.
1966年には,『グラフィックデザイン』No.23で「ソヴィエト絵本のある時代」を原氏は紹介している.1920年代以降グラフィック・デザインに絵本が重要な位置を占め,その後のアメリカやイタリアの絵本にグラフィック・デザインが影響を与えていることを早くから述べていたことになる.1950年代に入ってから,アメリカの絵本が飛躍的に発展したのは,視覚表現の新しい思潮,映像やデザインの手法を積極的に受け入れた点も見逃せない.
ブルーノ・ムナーリの魅力
ヴィジュアル・デザインの中にエディトリアル・デザインという分野がある.書物や雑誌のための編集デザインを指すが,エディトリアル・デザインを専門にしていた私にとって,絵本はまさにこの分野に入る.絵本は,本来機能の違うテキストとイラストレーションが一つの空間に共存する表現形態である.内容的にもテキストとイラストレーションは分かちがたい関係にあり,相互に作用することで成り立っている.グラフィック・デザイナーの絵本に強い関心を持ったのも自然な流れだった.そのようなこともあり,80年代のころはどうしても欧米の絵本を中心に見ていくことが多かった.
その中でも,絵本の見方を変えた最初の衝撃は,ブルーノ・ムナーリである.『霧の中のサーカス』(原題はNella nebbia di Milano:ミラノの霧の中で,1968)(図3),を最初に手にとりページをめくっていったときの感覚は,絵本とか本という概念を超えるものだった.半透明のトレーシングペーパーで始まる導入部分は,読者の意表をつく.次に何が起こるのか,続いていくのか,本を開いたときからすでにムナーリの術中にはまってしまう.
一羽の鳥が飛んでいる.青い信号,霧の中をバスはゆっくり走っていく.先には標識や水道栓などがうっすら透けて見える.トレーシングペーパーの特性を巧みに利用し,霧の中を進んでいく効果を引きだす.ページをめくると左側にバスの正面,ヘッドライトが見え,乗客の目は正面に向けられる.右ページにはバスで隠れていた自動車がやはりゆっくり走っていく.ページをめくるとネコも一緒だ.スポーツカー,バイクと次々にシルエットの中から現れる.左側のページは,バスや信号機,自動車,スポーツカーは霧の中に遠ざかっていく.左右のページで視点を変え,16ページのトレーシングペーパーの重なりが,ページごとに見え方を変える.17ページ目からは突然色鮮やかな画面が現れる.ここからは,霧の中をバスでたどり着いたサーカス小屋の中である.7種類の色の異なった紙がそれぞれ4ページずつ使われている.それぞれのページには大小の円の切り抜きがほどこされ,見るだけでなく,指先で触れ,次のページ,前のページとの繋がりを確認できるように組み立てられている.にぎやかで華やかなサーカスの見物を終えると,再びトレーシングペーパーによる霧の森の中を通って帰っていく.
1956年,先立って作られた『暗い夜に』(Nella notte buia)も同様の手法を用いている.半透明のパラフィン紙を含む3種類の紙からなるが,シンプルな構成は空間と立体感を意識させる構造的な特異な絵本である.ムナーリにとって紙の素材や仕掛けはとても重要なものであり,視覚だけでなく触覚,聴覚など全感覚を総動員させる.読者を絵本の世界に引き込み,自ら参加できる環境を作ることによって身体的な参加を求めるのである.絵本を見るというより,体感するというほうが適切かもしれない.
『霧の中のサーカス』からはじまったムナーリに対する関心は,ムナーリの作品をすべてみたいという欲求に繋がっていった.1945年に出版された10種類の仕掛け絵本「ムナーリの絵本」(I Libri Munari)は,いずれも紙の幅や折り方,フラップの貼り付け,切り抜きなど形態や構造に工夫を凝らしたユニークなものばかりである.見開きの中にいくつものフラップをめくっていくなど,機知とユウモアに富み絵本が持つ遊びや楽しさを際立たせている.しかし,第二次大戦後の混乱した時期にムナーリのさまざまな想いが込められていることも確かで,社会と子どもの未来に向けられる眼差しが重なる.
見る,触れる,遊ぶことが徹底して意識されたこれらの絵本は,19世紀の素朴な遊び心を持った仕掛け絵本に通じるものがあり,ムナーリを通して,あらためて絵本と子どもについて考える契機にもなった.
日本では1982年に,『ぞうのねがい』(Mai contenti),『たんじょうびのプレゼント』(L’ uomo del camion),『どうぶつはいかが』(Il venditore di animali)の3冊が出版されている.
ブルーノ・ムナーリが問いかけること
ムナーリに関心を持ちはじめた頃,彼の著作は『円+正方形 その発見と展開』(美術出版社,1971年)と『芸術としてのデザイン』(ダヴィッド社,1973年)が日本語訳されていた.ムナーリの活動が,造形作家,彫刻科,インダストリアル・デザイナー,グラフィック・デザイナー,映像作家,詩人,美術評論家,美術教育家と実に様々な分野にわたっていることはよく知られている.『芸術としてのデザイン』には,そのすべての活動を基に彼の考え方が述べられている.そこにムナーリの絵本を重ねていくと,絵本が単なる「本」ではなく,立体的な構造物であり,造形思考から映像や文学,さらには教育まで,さまざまな分野を横断し総合した所産であることが分かる.
『白と赤の読めない本』(1953)には,ストーリーもなければ,具体的な何も描かれていない.手に取る人に参加する楽しみと想像力を与える.『プレリブリ 本に出会う前の本』(1979)は,10cm×10cmの小さな本が12冊ケースに収まっている.素材は木からフェルト,プラスチック,フィルム,紙などさまざまで,触れながら質感を楽しむことができる.私たちが普段周りのものに接する感覚に等しい.ページをめくる子どもの指先から出発する感覚は,徐々に世界を拡張し,対象の存在を知覚し確認していく行為と同じである.
絵本はもともと対話性に富んでいるが,ページをめくらなければ何もはじまらない.見るという行為も単純に目で見るという行為で成り立っているわけではない.視線の動きを通して画面の中から見たいところを選択していくが,それは意識的であると同時に無意識的な行為でもある.身体全体で見る,感じることが求められるが,ムナーリのモビールやランプシェードなどすべてのデザインに共通する.
ムナーリの魅力は,完成された物語を提示したり,使い方や見方をあらかじめ決めたりするのではなく,相手に問題を投げかける.そのために,相手を引き込むための仕掛けや場をつくり出す.相手に参加すること,遊ぶこと,楽しむことを求めるのである.ムナーリの作品は,能動的に触れようとしなければ見えてこないものもある.作品が働きかけてくること,それに応える読者,そこに生じる相互作用がすべての作品に共通する考え方だといえる.
ムナーリの考え方は,時代を経ても色あせることがない.人が生きること,自然との対話,コミュニケーションの本質を作品や子どもとのワークショップを通して問い続けてきたからだろう.
「オレンジはすべて等しい丸い形をもつべきである.だが現実には,あるものは日陰で,あるものは日向で,またあるものは二本の枝の間の狭い空間で育つ.それでそれぞれ異なったものとなる.この多様性は,現実に生きているものだという生命のしるしである.」(『芸術としてのデザイン』)
この言葉が出発点となり,仕事にも人生にも私の中で生き続けている.