複製−印刷技術史からみるリトグラフ

今井良朗

石版術の誕生と複製技術

私たちが日頃目にする商業印刷物は、ほとんどが平版−オフセット印刷によるものである。オフセット印刷という呼称はひろく使用されているが、凸版印刷や凹版印刷のように版式を指すものではない。オフセットとは間接印刷方式で、インキの着いた版面から直接紙などに印刷するのではなく、一旦ゴムブランケット面に転写し、ゴムブランケット面から紙などにインキを転移する方式である。今日の平版印刷は、ほとんどがオフセット方式によるために、平版印刷=オフセット印刷と呼ぶことが一般的になっている。
弾力性のあるゴムブランケットから転写するために、表面が粗めの安価な用紙にも印刷できる。しかも、柔らかなゴム面と接触することによって版面の耐久性が高まり、量産に適しているなどの特徴がある。平版が凸版や凹版印刷に対してこれほど普及したのは、このように合理的で汎用性が高かったことがあげられるが、カラー写真製版の実用化に合わせて、製版技術と印刷機の改良、発展が著しかったことも大きい。
この版式の原型は、18世紀に発明された石版印刷に源流を辿ることができる。平版は版面に凹凸のない平面的な版式で、インキが付着しやすい親油性の画像部と水を保持する親水性の非画像部をつくる。原理は水と油の反発を利用した化学的な方式で、油性のクレヨンやとき墨で描いた部分にインキが着き、画像部以外は石版を水で湿らせておくことでインキが反発して付着しない。この技術は、石版印刷として18世紀の末(1798年頃)オーストリアのアロイス・ゼネフェルダー(Alois Senefelder 1771–1834)によって発明された。もっとも、実用段階に入るのは19世紀中頃で、小さなものから大判のものまで大量に印刷することを可能にしたことで、産業的な規模で利用できるようになった。この方法は今日一般的な平版−オフセット印刷と同様の原理に基づくものである。
石版印刷が同時期の印刷技術である銅版画(註1)や木口木版(註2)にも増して発達したのは、木版や銅版がその版材、印刷効果に物理的な影響を受けながら、その制約の中で表現方法が発達したのに対して、石版は版材の物理的な制約を余り受けなかった。紙に絵を描くのと同じように、石にクレヨンやとき墨で直接画像を描くことができた。こうした絵画的画像の再現性に優れていたことが、油彩、水彩、素描、ペン画など、それぞれの表現にあわせた石への描画を可能にし、19世紀にはヨーロッパを中心に有効な複製手段、印刷技術としてひろく受け入れられた。
凸版や凹版は、版材の特質から線や面を中心に構成する。その点物理的な制約を受けにくい石版印刷は、印刷を前提にしながらも原画表現の自由度を飛躍的に高めた。初期のポスターや書物の挿し絵に、油彩や水彩画の描写により近い複製表現が多く見られるのもそのためである。そして何よりも、文字と画像を一体的に表現し印刷することができた。書物では見開きページを一つの空間としてとらえ、ポスターでもダイナミックな新しい画面の構成が可能になった。また石版は、平版の特性から写真を版面に感光させる製版が容易だったこともあり、19世紀半ばには写真石版が実用化され、その後版材も石に替わって薄く軽量な亜鉛版やアルミニューム版の開発に繋がっていった。19世紀末から20世紀にかけて、出版の隆盛やポスターなどの複製技術の発展を支えたのは、このような合理的なシステムを持った印刷技術が背景にあったからである。それほど石版印刷の登場は画期的なものだった。
ただ、石版印刷による初期の挿絵などを見ていくと油彩画や水彩画の複製そのものであり、それまでの木版、木口木版や銅版彫刻、エッチング、メゾチントなどの表現とは明らかに異なる。展示されているEs War Einmal, Country Idylls(図1)は、初期石版刷り絵本の典型的なものであり、10色前後の異なった色のインキを刷り重ね、今日の写真製版によるカラー印刷と同様のことを職人の熟練した技能によって成し遂げていた。商業印刷の徹底した複製技術指向と絵画への接近がもたらしたものだが、そこに木版や銅版画で培われた固有の表現や芸術性を見出すのは難しい。確かに今から見れば趣の異なった油彩画の特徴を再現しているが、いかにも複製絵画の印象が強い。
絵画の精巧な複製と写真の印刷は、19世紀末、商業印刷の大きな課題だったことを考えれば不思議なことではない。その結果、商業印刷はより精度の高い複製技術を追究し、カラー写真製版、大量印刷に発展していった。一方、直接版材と印刷に関わってきた版画家は、印刷物という主題と否応なく向き合うことになり、創造性、芸術性をあらためて追究していくことになる。
その後版画は異なった道を歩むことになるのだが、19世紀末から20世紀にかけては、カラー写真製版が過渡期だったこともあり、商業印刷にも画家や版画家の役割はまだまだ大きかった。本来、印刷に至るプロセスには多様な表現の可能性がある。ポスターや絵本などにも当時の技術を巧みに引き出した芸術性の高いものが数多く生まれた。背景には版画やグラフィック表現の更なる探究に向かわせる土壌があったからである。

版画と複製技術

今日では版画と一般的な印刷物は区別して考えられるが、もともと版画と複製−印刷の境界がはっきりとあったわけではない。版画の歴史を辿っていくと宗教的図像の複製、さらには書物に挿入された図像が起源であり、特徴は1枚の絵画ではなく、複数制作することを前提にした印刷物だった。その点から見ればどちらも印刷されたものであり、現在の印刷物と変わらない。
複製技術は、木版から始まり銅版、木口木版などが登場するが、石版もその一つだった。初期のものは、聖書や時禱書など信仰と密接な関係を持っていたが、時代によって題材が変わり、徐々に歴史や科学、医学、文芸書の図像や挿絵として多岐にわたり、書物と深く結びついていった。書物に複数挿入された版画は、ただテキストを補うのではなく、一枚一枚が独立した絵画性を持ち、より写実的で緻密な表現が探究された。
版画の芸術性が認識されるに従って卓越した手腕を発揮する版画家も登場する。16世紀に活躍したアルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer 1471-1528)もその一人で、『黙示録』『銅版受難伝』(図2・3)などに数多くの細密な木版画と銅版画を残した。デューラーは、書物の制作から出版にいたる全般に関わり、版画の芸術性と書物の価値を高めた。
同様にギュスターブ・ドレ(Gustave Dore 1832-1888)は、出版が大衆にまで広がった19世紀後半に活躍した代表的な版画家の一人で、精巧な木口木版画で人気があった。『聖書』や『赤ずきん』(図4・5)のための挿絵は、陰影や細部の描写が克明に彫刻され、初期の素朴な木版刷りとは比較にならないほど緻密な表現性を持っている。
銅版と木口では材質感も固さも異なり、彫り方や道具の使い方にも創意工夫が求められる。作家は扱う版材に影響を受けながらも独自の表現を探究した。版材の物理的特質がそのまま固有の表現の特性であり、印刷によって生じる特性と表現が密接に結びついていた。版材を彫刻する製版のプロセスこそが作家固有の表現であり、作家は版材の特質や道具と挌闘しながら独自の世界をつくり出そうとしていたからである。
しかし、長い時間をかけて培われた書物の中の版画は、石版印刷の登場、写真術の発明と複製技術への応用によって様相が大きく変わっていく。大量複製による商業出版を確立させていくには、版画家自らが彫刻するだけでなく、油彩や水彩画をいかに正確に再現できるか、豊かな色彩を獲得するかが求められたからである。版材の影響を受けにくい石版印刷の普及は、複製手段、印刷技術の高度化を進めていくうえで適していた。それが、写真技術を応用した精度の高い絵画の複製印刷技術の発展に一層繋がっていった。とりわけ3原色の原理を応用したカラー写真製版の展開が重要な契機になった。
もちろん、今日のような商業印刷や写真製版技術に一気に移行したわけではない。19世紀は見えるものの再現と複製への執念が着実に成果をあげた時代ではあるが、それは同時代の科学的成果と芸術が融合するといった単純なものではなかった。むしろ新たな技術がもたらした葛藤によって、画家や版画家、印刷技術者は精神の根底を揺さぶられ、絵画的想像力をさらに高揚させた側面もあったからである。写真製版技術と4色分解の精度が高まるにつれ、版画本来の表現特性があらためて意識されるようにもなる。木版や銅版と同様、石版にも固有の版材の特質があり、印刷表現特性があるからだ。
例えばウォルター・クレイン(Walter Crane 1845–1915)は、19世紀末、木口木版による緻密な表現による書物や絵本の挿絵で知られている。自らも述べているように日本の浮世絵版画の影響を強く受けている。黒い肉太の輪郭線と平面的な色面によって特徴づけられた挿絵は、木版の物理的な特性を存分に引き出したものだった。(註3)(図6)
一方で、ドローイングや水彩を生かした石版印刷による本づくりも試みている。Flora’s Feast(フローラの響宴1889)では、石版独特の砂目や透明な色彩感によるのびやかなタッチの表現が際立つ。背景はほとんど描かず、人物は白い背景に浮かび上がる。木口木版の表現が極めて装飾的であるのに対してシンプルな空間だ。これは石版印刷による効果がもたらすものだが、鉛筆のタッチや水彩の特性がそのまま印刷、再現される石版の表現特性を十分引き出した結果である。(図7)
クレインは、早くから挿絵が個性のない絵画性に陥ることを危惧し、原画をそのまま再現したような石版印刷に否定的だった。油彩画などを忠実に複製することに徹した濃密な描写、肉厚に盛られたインキによる印刷は、芸術性も品格もないと見ていたからである。(註4)印刷版式によって表現は変わる。クレインは原画の様式美よりも、印刷することによって生じる固有の表現と書物の造形美にこだわったのである。
19世紀末、フランスで隆盛期を迎えたポスターにも同様の動きが見られる。ポスターが商業性、実用性を超えて鑑賞の対象として見られるようになった。都市文化と結びつき、新たな芸術としての地位を獲得したのである。ジュール・シェレ(Jules Cherét 1836−1932)やトゥルーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec 1864−1901)は代表的な作家であるが、複製絵画的なポスターの世界から、石版印刷を固有の表現手段とし新しいスタイルをつくり出した。
シェレは、1866年いち早くパリに自分の印刷工房を開設した。大判印刷を可能にするイギリス製の石版印刷機械を備え制作を開始したのである。シェレは、デッサンを直接石版上に描きながらデザインを考えていったことで、従来の文字中心、あるいは複製絵画的なポスターの世界を変えた。軽妙なスケッチが女性のいきいきした姿をとらえ、躍動感を与えた。
シェレのポスターには、それまでの石版印刷物と比べ、明らかに表現の違いが見られる。シェレは、それまでの一複製手段でしかなかった石版印刷を固有の表現手段として、新しい手法とスタイルをつくり出した。さらには、複製技術としても新しい理論に基づく技術を持ち込んだのである。
シェレは、7年間の石版工房での修業を通して、石版印刷技術に精通していた。版材の特性やインキの特性を熟知していたのである。シェレは、石版の持つ表現特性を最大限に発揮させ、石版独特の砂目や透明な色彩感による表現を試みた。従来の絵画の複製を前提とした濃密な描写、肉厚に盛られたインキによる印刷と比べると色数も少なく、石への描画も素描が生かされた控えめなものになっている。石版独特の砂目を生かした表現を試みたのである。特徴的なのは、色の3原色の原理を利用して、ほとんどのポスターを黄、赤、青(うすい青と濃い青の2種類を用いることが多くときには黒も用いる)3種類のインキで印刷したことである。(図8・9)
3原色の理論は、1861年にイギリスの物理学者ジェームス・クラーク・マクスウエル(James Clerk Maxwell 1831–1879)が発表し、1869年には、フランスのデュコー・ドゥ・オーロン(Louis Ducos du Hauron 1837–1920)が減色法を発表し写真石版に応用している。シェレは、こうした新しい理論や技術に関心を持ち、描画に濃度と階調をつけて3色の重ね刷りによって多彩な色を引き出そうとしたのである。
現在では、あらゆるカラー原稿が、写真による色分解で黄、赤、藍それと墨の4色で印刷、再現されることがあたりまえだが、それまでの色ごとに何版も版を分け、何種類もの色を重ねて再現する方法と比べると画期的な方法だった。やや淡い調子の砂目による表現も、色の重なりによる効果を前提にしてのことであり、透明感のある明るい色調のポスターもこうした技術的な背景をもとに生み出された。写真製版のための色分解ではなく、3原色の原理を自らの感性で色分けし統合したのである。シェレによる新しい表現手法に基づくポスター表現のスタイルは、その後のフランスのポスター、さらにはヨーロッパのポスターに大きな影響を及ぼしたことはいうまでもない。ここでは複製−印刷−量産を前提としながらも、石版や印刷術の特性を意識した表現、芸術性の探求が見られる。版式と表現特性が密接に結びついていたのである。

日本における石版印刷

日本では石版印刷はどのように受け入れられたのだろうか。ヨーロッパでは、木版、銅版などと同じように書物のための版画やポスターへの広がりなど、石版が印刷技術として徐々に発展していく過程がある。ところが、日本では当初から最新の複製印刷技術として導入された。
石版印刷は、江戸時代末期1860年にプロシヤ使節によって伝えられたが、本格的な普及は1874(明治7)年頃からである。当時アメリカで石版印刷が普及しつつあることを知った銅版画家梅村翠山が、アメリカからチャールズ・ポラード(Charles Pollard)とボヘミア生まれのオットマン・スモリック(Ottman Smolik)の二人を雇い入れ、銅版、石版を扱う彫刻会社を開業したころから始まる。彫刻会社では、このころの人気歌舞伎役者の写真をもとに、砂目石版に手彩色を施し、西洋錦絵の名で売り出した。初期の石版画は錦絵に対抗できるものではなかったが、技術的な高まりとともに、石版を専業とする印刷業が成り立つようになった。また銅版業者の石版への転業も多く、1882(明治15)年頃には東京に数10軒の石版印刷所があったという。(註5)
日本では、江戸時代に発達した木版印刷が大衆芸術や日常的な印刷媒体の役割を担い、多色摺り浮世絵版画〈錦絵〉や商業広告〈絵びら〉として広く浸透していた。独自の平面的な表現法と摺りの技術で、絵師、彫師、摺師の三者が一体となった独特の表現世界をつくりあげていた。しかし、1887(明治20)年ごろから比較的複製が容易だった石版印刷が中心となり、木版印刷は徐々に衰退し、木版摺りが独自に持っていた表現性も徐々に後退していった。
石版印刷は、当時簡便で合理的な印刷方式として使われ、印刷業の中核を担うようになる。印刷業、出版業も業態を変え、江戸時代以来の木版摺による絵びらや紙袋など日用生活に関わるものも石版印刷に置き換わっていった。さらに輸入に頼っていた石鹸やマッチ、洋傘、ランプなどの日用品、ビールや煙草などの嗜好品が国内で生産、販売されるようになると、ラベル、包装紙などの印刷需要は一気に高まっていった。今回展示されている石版石は、表面の画像は後に再研磨し使用された大正、昭和に入ってからのものがほとんどだが、明治時代から煙草パッケージ印刷のために使用されたものである。(註6)
ラベルは、石鹸やワインのようにそのまま欧米のデザインを模倣したものから、織物や煙草など、古くからある木版摺が、欧米の様式と奇妙に融合したものまで、様々な表現要素を見ることができ興味深い。携わっていたのは印刷会社に所属する画工と呼ばれる人たちだが、欧米のデザインをいち早く実践の場で受けとめていたことになる。(図10・11・12)
1885(明治18)年開業の秀英舎の石版部泰錦堂(現大日本印刷)をはじめ、印刷会社は多くの石版画工を抱えていた。その後、画工は雑誌の口絵から額絵、大判のポスターも手がけるようになり、昭和初期まで重要な役割を担っていた。画工は、東京美術学校(現東京藝術大学)の学生アルバイトから卒業生、現場で育った画工まで多様な構成だった。毎月数回日本画家や油絵画家からデッサンの指導を受けていたという専門職である。(註7)熟練した技術を持った画工は、独自の図案感覚と美意識で構想から石版石への描画まで仕上げることも多かった。ところが、美人画ポスターの流行によって、画工と画家の仕事が分化し、日本画や油絵を正確に模写、複製することが求められるようになる。一人ですべてを担う画工は限られるようになっていった。画工はより模写のための技術力を高め、絵画に関心のある画工は、画家や版画家として独立することも珍しくなかった。版画家、洋画家として知られる石井柏亭も画工時代を過ごした一人である。(註8)
日本画や油絵を忠実に再現する方法は、今日ではカラー写真製版によって簡単に複製することが可能だ。いわば、同じことを人間の眼と手によって行なっていたことになる。この技術がいかに熟練を要したかは想像できよう。こうした技術を背景にした初期のポスターは、絵の具の盛り上りや、細かな筆の目をも再現するという、精巧で微密な印刷物として仕上げられた。ポスターというよりは、高級な複製絵画として特異な表現世界を作りあげたのである。
おのずと、石版画工への技術的依存度は極めて高いものになっていった。そして仕上りの精巧さを競うあまり、技巧的な競争が進み、石版刷ポスターの大半のものは10色以上で刷り分けられ、時には20〜30色で刷られるものもあった。その結果、印刷技術はより正碓な複製技術として発達するが、ポスターの表現は、極めて観賞的な複製絵画の傾向を強めていった。
『蜂印香竄葡萄酒』は、美人画を題材にした精巧で緻密な砂目石版印刷による代表的なポスターで、14色を刷り重ねている。1913(大正2)年頃、町田隆要(信次郎)(註9)が制作したものだが、原画から石版への描画まですべて行った。町田は東京美術学校を中退し、1894(明治27)年頃から石版印刷の世界に入り、油絵、石版印刷を学び、額絵などを中心に、砂目石版による多くの印刷物を手がけた。石版画工から転じた数少ないポスター作家の一人だった。
『蜂印香竄葡萄酒』は、砂目石版の表現効果を熟知した経験と実績から生まれたポスターであり、随所に細かな工夫が見られる。髪の毛や目は細い線や点描で補正し、ラベルの部分は銅版彫刻刷りしたものを石版に転写。(註10)また中心になる女性と背景の描写を描き分け、奥行きを表現している。初期の絵画的ポスターではあるが、絵画から石版の特性、印刷効果まで自ら把握することによって独特の表現をつくり出した。(図13)
その後、町田は金属平版やオフセット、写真製版の実用化に合わせて表現方法を模索し、大胆な構成まで高めていった。まさに変化していく版材や製版プロセスとの戦いである。『松坂屋いとう呉服店』では、写真製版に手作業を加え、絵画として描く態度から図案を意識した構成的な画面に姿勢を移していった。台麓図案会第5回展で大賞を受賞したポスターである。(註11)(図14)展示されている額絵からポスターまで、町田の仕事そのものが日本の石版印刷が発展していく過程と重なり、印刷技術の変遷を辿ることができる。
石版印刷技術が、近代のグラフィック表現成立に重要な役割を担ったことは、フランスでも日本でも変わらないが、その発展過程や表現性は必ずしも同じではなかった。フランス初期のポスターに浮世絵版画の影響がうかがえることはよく知られている。シェレやロートレックらによって、線描と色面を重視した石版刷りポスターの新しい表現が現れるのが19世紀末、それから10数年を経て日本でもポスター制作は盛んになる。しかし、わが国では浮世絵版画の様式がポスターに継承されていったとはあまり考えられない。日本のポスターは、石版印刷があくまでも複製印刷手段として使われ、おのずと質の違った表現性を持って発展した。背景には、オフセット印刷機が発達したアメリカと、いち早く輸入した日本では、グラフィック表現としての版画的特性が薄れ、商業印刷との峻別が一層進んだと考えられる。
もっとも、美術家と印刷技術者の共同制作を目指した「実用版画美術協会」(註12)のような動きもあったが、印刷によって生じる表現性以上に、高度な写真製版による再現性を尊重する傾向は今日まで続いた。結果的には写真製版と印刷技術の改良が進み、今日のオフセット印刷の発展に繋がっていったのである。

あらためて石版−リトグラフを考える

印刷された絵画やイラストレーションについて考えるとき、原画や原稿に対する意識は、カラー写真製版法が確立する前と以後では状況は明らかに違う。印刷された成果物、つまり原画や原稿の再現性や出来映えが優先されるようになった。原画、製版、印刷が分業化することによって、製版のプロセスがブラックボックス化してしまったことも一因だろう。しかし、複製のために製版、印刷技術を媒介させることは、原理として捉えれば、過去から現在まで大きく変わってはいない。印刷に至る過程と媒介物が意識されなくなっただけである。
あらためて版画から始まった複製技術の歴史を振り返ると、版画家や印刷工は版材や道具の特質を認識することによって、印刷に適した版を作ってきた。それは、製版に力を注ぎ表現の可能性をさまざまな形で探究してきた歴史である。
今日、版画と一般的な印刷は異なった領域として受けとめられているが、あらためてそれぞれの領域から原点を見つめることも必要だろう。どちらにとっても重要なのは刷版を作っていくためのプロセスであり、そこには人と版材や道具、インキ、紙などが介在している。印刷は表現として定着させるための手段だということである。
現在ではリトグラフでも石版を使用することは珍しく、アルミ版や直接感光できるPS版が主流になっている。その点では一般的な平版−オフセット印刷の版材と変わらない。大きな違いといえば、リトグラフはアルミ版などに直接描画しプレス機で印刷すること、オフセット印刷は、主として一旦写真原稿にしてから写真製版行程に移し大量印刷することだろう。
しかし、リトグラフでも写真を素材としPS版に焼き付ける表現もある。オフセット印刷もカラー写真製版によるものばかりではない。オリジナルの原画が存在しない原稿もある。形体や構成を計画しながら黒1色で印刷原稿を作成し、数色のインキを刷り重ねてはじめて色彩豊かなグラフィックとして表現されるものもある。このような手法は、1930年代から50年代ころのポスターや絵本、雑誌のイラストレーションとしてごく普通に見ることができた。カラー写真製版の精度が高まっていく過渡期や、廉価にするための手段として用いられた面もあるが、作家やデザイナーが製版に直接関与することも珍しくなかった。(註13)
例えば、版画家が絵本や挿絵でリトグラフの表現性を生かすために、直接アルミ版やフィルムに描画し、オフセット印刷で量産化したもの。製版、印刷技術を熟知したデザイナーによって、仕上がりを想像しながら原稿をつくるグラフィック表現などがそうである。このような手法は消えたわけではなく、現在も生き続けている。製版のプロセスに内包する創造性があまり注目されなくなっただけである。このようなプロセスに焦点を合わせると、版画と一般的な印刷物との境界は明瞭なものではなく、重なり合うところも多い。(図15・16)
カラー写真製版があたり前になった今日、あらためて版画と印刷について再考することは、印刷に至るプロセスに内包する制作者の思考と創造性に光を当てることでもある。版材と版形式が表現特性を決定する、あらためて現在の平版−オフセット印刷の起源である石版に着目する意義もそこにある。
現在では、石版画の技法を保存、継承している工房も少ないという。そのような現状の中で、あらためて〈石〉に着目し、石版画の未来を考え、魅力を検証しようという動きもある。かつての技法を継承することだけを目的にするのではなく、〈石〉という物質としての媒体を見つめ直し、描く身体と〈石〉との関係性、そこで生じる情動について見つめ直そうというのである。
石版画は描画からプレス機による刷りまで、その場で確認しながら作家がコントロールできる。版材である石との挌闘、描画のための道具や材料の吟味、インキ、用紙への執着など、工程は結果や予定に合わせるというより、模索しながらの作業である。そこには試行錯誤と偶然性や意外性も伴う。感覚的作用と瞬時の判断、肉体を使った力技も求められ、それだけ版との身体的距離も近くなる。
学生も巻き込んだ“Stone Letter Project”を企画し、石版画の魅力を伝える活動を行うグループの一人、田中栄子は石版に触れたときの魅力を次のように述べている。「石版画の場合、自分の描いた像が、プレス機の圧力によって石から無理矢理剥ぎとられたインクそのものである、いわばイメージの物質性を再認識させてくれる」と。それは〈石〉という版材の再認識であり、印刷することで表れる描画した身体の痕跡であるが、同時に身体を離れたインクという物質性を伴った新たなイメージということだろう。
複製するには、紙やキャンバスに描くのと異なり、媒介するものが必要になる。何によって媒介するのか、されるのか、自ずとそこと向き合うことになる。田中はストーンマークにも言及し、「石版のストーンマークである石版そのものの形を意識せざるを得ません」。それは金属版では感じなかったことだと述べている。石版より大きな用紙を用いれば、厚みのある石版はプレスされることで、石のエッジであり輪郭であるストーンマークを残す。それは媒介した石版の存在と痕跡を示すものでもある。
さらに、「石版という『石』の存在と、それを刷りとる『紙』の存在と両者の間にある『インク』の存在を明らかにするのではないか」「『石』を版とすることによって『紙』と『インク』のそれぞれの物質性に気づかせてくれ、さらにはイメージを物質として意識させるこの『新しい感覚』がとても現代的で新鮮に感じられた」とも述べている。(註14)
「何を描くか」よりも、媒体である〈石〉そのものと向き合ったときに得た感覚である。アルミ版は紙同様あらかじめ砂目状に研磨された既定の版材だが、石版は研磨することからはじまる。田中がいうように重労働であり、研磨によって石の表面が異なり、砂目も一様ではない。〈石〉との対話からすべてがはじまる。作家と刷り上がった版画との間に生じることの中心に〈石〉を据えることで、〈インク〉〈紙〉が関係づけられ、自らの身体がその物質性と深く結びつくのだろう。
色彩が加わると、さらに〈石〉の数が増えていく。石版は2色、3色と色数を増やしていくとき、紙やキャンバスに色を重ねていくのとは異なる。版を色の数だけ作らなければならないが、その行為は描こうとするモチーフを頭の中で色分けすることでもある。色彩のある世界を一度要素として分解し、さらに組み合わせることによって生じる新たな色彩を帯びたイメージとして統合するのである。
分解された要素−素材は色ごとに描くが、すべて黒によるもので、3色刷りなら3枚の石版に、5色刷りなら5枚の石版に描くことになる。田中の言葉を借りれば、刷るごとにイメージの一部が引き剥がされ、色を帯びたイメージの断片が重なり蘇っていく。
版画に至るプロセスには身体的思考と行為が凝縮されるが、さらに刷る行為によって石から像が引き剥がされ、身体を離れ複製された新たなイメージの物質として現前化する。思考する身体と、描き、刷る身体を強烈に拘束する〈石〉の存在がそうさせる。田中は、この物質感を現代的で新鮮な「新しい感覚」と捉えたのだろう。
版画でもグラフィックでもパソコンが日常的なものになり、構想過程でパソコンを使用することも珍しくない。特徴的なのは構想から印刷に至るプロセスを個人がモニター上でコントロールできることだ。その点から見れば、製版のプロセスがブラックボックスではなくなった。意識的にも無意識的にも印刷されることを前提に、いわゆる媒介するもの〈版〉が意識されるようになったともいえよう。レイヤーを重ねる手法は版画や印刷における分色版に近いものであり、素材や色ごとに分解して創造的に思考することができる。
ただ、技術の根底にあるものはそれほど単純ではない。最終的な表現を想定するための選択肢もイメージもひろがったが、筆や鉛筆の技法、ソラリゼーションなどの効果も「〜のようなもの」であり、身体と道具が石版と同じような物質的な感覚で結ばれるわけではない。そもそもアプリケーション・ソフトそれ自体が、かつての手仕事や道具を基に考えられたものがほとんどだ。筆や鉛筆、木炭、ペンなどの道具による効果はもちろん、ソラリゼーションやハイコントラスト、アウトラインなどの表現は、暗室での写真現像から生じる表現だし、メゾチントや水彩画、鉛筆画など版画や描画の仕上がりまでソフト化されている。その結果デジタルの特性をうまく引き出した独特の表現も生まれ、ソフトが表現特性に影響を与えることもある。
さらにインクジェット・プリンターの登場も印刷を身近なものにした。これまでの版形式とは異なり、製版過程のフィルムや刷版−印刷のための版材がない、しかも網点も見えない。構想から印刷まで一貫して距離の近いところで完結する。あたかも版画制作のような行程でグラフィックが表れる。
ここ数年、ボローニャ絵本原画展の入選作品を観ていると、20世紀初頭のポスターや絵本の表現に近似した作品が何点もあることに驚かされる。それは様式の引用というよりは、まさにパソコンとインクジェット・プリンターがつくり出す表現だろう。
デジタル環境は製版と印刷の概念を変え、多様な表現の探究と可能性があることをあらためて確認する契機にはなった。けれども、パソコンのソフトは高度な技法を簡単に使えるが、身体的な関与は石版とはまったく次元が異なるものだ。誰もが石版と関われるわけではないが、物質的であることの意味について問いかけることは必要だろう。
その時代の版形式が表現特性として表れるとすれば、デジタル環境は新たな表現の可能性をひろげている。しかし、過去の技術が消えたわけではない。200年を経て蓄積してきたこと、変化しなかったこともある。印刷を媒介する版形式にはそれぞれ特性があり、版画や印刷の形も一様ではない。よって立つ基盤も違う。しかも、何が効率的か優れているか、ということなど問題ではない。むしろ、それらを見極め、向き合うことによって表現の幅もひろがる。パソコンでの制作には、重層的な特有の空間と身体的関わりが生じる。石版も直接触れることで身体が感じとり見えてくるものがある。つまりは、従来の枠組みに囚われない相互関係の中に見えてくるもの、それが現代的な〈版〉の特性や感覚といえることなのだろう。

◉註
註1:銅版画は、木版画より少し遅く1420〜30年代ごろに制作が始まり、書物の扉を飾った。銅版印刷は凹版による版式で製版技法上、直刻法(直接法)と腐蝕法(間接法)に分けられる。前者は、エングレービング、ドライポイント、メゾチントなどで、後者は、エッチング、アクアチントなどの技法がある。
アルブレヒト・デューラーは、木版画による扉絵、挿絵でよく知られているが、銅版画(エングレービング)では、銅版彫刻の力強さに繊細さを加え、光と影を巧みに表し新しい表現の境地を開拓した。その後の銅版画(エングレービング)による挿絵に与えた影響は大きい。
エッチングは、金属面に防蝕膜をつくり針でひっかいたところを腐蝕させ版面をつくる技法である。手で描くのと同じように版をひっかくために、のびのびとした柔らかで繊細な表現を生み出す。
註2:版を彫刻し凸部にインキをつけて印刷する。木版画は板目を使用するが、木口木版は、柘植などの堅い木口の部分を使い細い線を彫り込んでいく。白線の太さ、彫られる量、平行線、交差線を使い分けていく手法で、陰影や細部の表現、ハーフトーンの再現を可能にし、緻密な奥行きのある表現性を実現させた。18世紀末、イギリスのトーマス・ビュイックによって最初に試みられ、19世紀後半に多色刷りが開発される。ヨーロッパ、とりわけイギリス出版文化の特性ともいうべき表現形式として発展をとげた。
註3:ウォルター・クレイン、高橋誠訳『書物と装飾』国文社、1990年
註4:前掲書
註5:『東京プロセス工業製版史』東京プロセス工業協同組合、1974年による
註6:展示されている石版は、明治時代から研磨を重ね煙草のパッケージ印刷のために使用されたもの。日本専売公社京都印刷工場に保管されていたものが、京都市立芸術大学に移管された。確認できる古いものは1904〜05(明治37〜38)年まで販売された「チェリー」のデザイン。新しい時代のものは1946(昭和21)年に発売された「ピース」「コロナ」、1956(昭和31)年発売の「いこい」。昭和に入ってからの石版パッケージは、戦時中の金属不足の代用と考えられる。(たばこと塩の博物館学芸員 谷田有史氏による)
註7:秀英舎(現大日本印刷)の画工だった橋本正平氏の回想による。橋本氏は1915(大正14)年、石版部に入社、それ以来40数年石版、写真製版に関わった。筆者は1974年ごろから約10年、当時の画工の仕事や技術について、所蔵していた印刷物を通して聞き取りを行った。1976年に開催した『近代日本印刷資料展−石版印刷を中心に−』展(武蔵野美術大学美術資料図書館)には、橋本氏の所蔵品も含まれ、展覧会の監修も受けた。
註8:『柏亭自伝 文展以前』石井柏亭、教育美術振興会、1943年
註9:町田隆要(1871−1955)は、石版画工から転じたポスター作家の一人で、数多くの額絵やポスターを手がけた。本多錦吉郎に師事し、商業美術に専念するころ1914(大正3)年に名を信次郎から隆要に改めた。1930年代まで多くのポスターを残したが、『日本の広告美術−明治・大正・昭和 Iポスター』(美術出版社1967)に掲載されたポスター「大阪商船株式会社」は制作者不詳となっている。町田の名は久しく忘れられていたが、1976年『近代日本印刷資料展−石版印刷を中心に−』展を機にポスター史に残るようになった。
1974年に町田隆要の作品が長男町田慎一氏から武蔵野美術大学に寄贈され、ポスターや額絵など関連資料を含め約250点が「町田コレクション」として収蔵されている。
註10:石版では、直接描画せず凸版や銅版など凹版から転写紙に印刷し、石版に画像を転写することができる。ポスター『蜂印香竄葡萄酒』の葡萄酒ラベル部分は、銅版彫刻刷りから石版に転写したもの。
註11:「台麓図案会」は、若手図案家の育成を目的に松坂屋が1920(大正9)年に創設した。1920年から24年まで9回の公募展が行われ、町田隆要は第5回展(1922)で大賞を受賞した。『台麓図案会報』第3輯(1922)には「近時広告研究熱が旺んになるにつれて、一般の人もポスターというものに就て、非常に興味を持つようになって来た際とて、来観者極めて多く、頗る盛会であった。(中略)そうして一般に大賞金賞の二点は非常な好評であったが、殊に各専門家がいずれも申合せたかの様に、大賞の図案が実地応用された場合に効果の偉大なるべきを賞讃させたのは、其の作品の真価を裏書きされたようなものであった。」と記されている。
印刷はMP式写真製版法によるオフセット印刷。三間印刷が開発した写真製版技術で、コロジオン乳剤を塗布したすりガラスの上に色分解したポジを色ごとに作り、レタッチを加えチャイナ紙で亜鉛版に転写し刷版にした。レタッチに頼るところが大きく、転写による写真製版であるために奥行きのない浅い階調になったが、淡い印刷効果が特徴になっている。
註12:実用版画美術協会は、多田北烏、藤沢龍雄が中心になり1929(昭和4)年に結成された。美術家と印刷技術者の共同研究、制作の場をつくり、大衆芸術の発展を目指した。
註13:1930〜50年代には、絵を直接版材に描いて印刷のための版をつくる〈描き版〉と呼ばれる製版、印刷がある。廉価に印刷することが目的だったが、石版画に近い表現が可能だったために意図的に使用した作家も多い。版画家、絵本作家のジャン・シャロー(Jean Charlot 1898–1979)もその一人で、絵本Child’s Good Morning 1943(おやすみなさいのほん)では、アセテートフィルムに描画し直接版に焼き付けた。
註14:田中栄子「石の手紙−イメージが物質になる場所」『Stone Letter Project #1』Gallery TRI-ANGLE
宝塚大学、2017年
◉参考文献
『版画、近代日本の自画像』小野忠重、岩波書店、1961年
『東京プロセス工業製版史』東京プロセス工業協同組合、1974年による
『書物と装飾』ウォルター・クレイン、高橋誠訳、国文社、1990年
The Art of Walter Crane, P.G. Konody, George Bell & Sons, 1902
『ジュール シェレ展』大森達次監修・訳、印象社、1991年
『黄金時代のポスター芸術展』北海道立帯広美術館、1997年
『ポスターの歴史』ジョン・バーニコート、羽生正気訳、美術出版社、1974年
『日本デザイン小史』日本デザイン小史編集同人編、ダヴィッド社、1970年
『近代日本印刷資料展−石版印刷を中心に−』「近代日本における平版印刷の歩み」今井良朗、武蔵野美術大学美術資料図書館、1976年
『絵本とイラストレーション 見えることば、見えないことば』今井良朗編著、武蔵野美術大学出版局、2014年

複製−印刷技術史からみるリトグラフ