ドゥシャン・カーライ(Dušan Kállay) 見えない言葉を見える形に表す

今井良朗

ドゥシャン・カーライ(Dušan Kállay)は、一九四八年スロバキア(当時チェコスロバキア)、ブラチスラヴァに生まれた。一九六六年ブラチスラヴァ美術アカデミー絵画科に入学、同時に版画、グラフィックアート、イラストレーションを学ぶ。在学時ドレスデン、パリ旅行をきっかけにデューラー、レンブラントの版画、フランス文学への関心を深める。またルドン、ルオーの作品など、ヨーロッパの美術思潮の影響を受けるが、一九六八年以降のソヴィエト軍駐留がもたらした社会体制や政治的な影響は、その後の制作姿勢にも反映している。
一九七三年、二五歳の若さでブラチスラヴァ世界絵本原画展(BIB)金のりんご賞を受賞、一九七五年にも同賞を受賞。一九八三年に『不思議の国のアリス』(Alice in Wonderland )のイラストレーションでBIBグランプリを受賞した。一九八八年には、国際アンデルセン賞画家賞を受賞している。
日本では絵本の挿絵画家として知られるが、その活動は絵画、版画、切手デザインと幅広い。一九九〇年からブラチスラヴァ美術アカデミーで教鞭をとり、現在も版画・イラストレーション部門の教授として活動している。カーライの下には世界中から学生が集まるが、降矢ななもその一人であり、板橋区立美術館の「夏のアトリエ」で学んだ出久根育など日本との縁も深い。

ドゥシャン・カーライの『不思議の国のアリス』

ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』は、不思議で魔法に満ちた物語であり、登場するのは、人間であるアリス以外奇妙なものばかりである。トランプの女王と兵士、フラミンゴを木槌にして、ハリネズミを打つクロケー、見え隠れするシェチャネコ、あり得そうもないものが登場し、さまざまな出来事が繰り広げられる。だが、同じようにアリスの行動も奇妙である。不思議な世界にいながら普通に人間として振る舞っている。『不思議の国のアリス』は、空想的で幻想的な物語だが、そこに描かれている世界は、現実社会のもう一つの側面でもある。何が現実で、何が現実でないのか、何が正常で何が正常でないのかを語りかける。
アリスの独り言(モノローグ)が多用され、モノローグとダイアローグが絡み合う言葉の遊びもこの物語の特徴になっている。それはアリスによるアリス自身への問いかけであり、アリスの心の動きであると同時に読者の心に対する揺さぶりでもある。この物語には、背後に見えない言葉とイメージがひろがっている。
『不思議の国のアリス』は、ジョン・テニエルにはじまり多くの画家やイラストレーターたちが描いてきた。それほど魅力的な文学であり、題材だからこそ描かれ続けてきたのだが、中でもカーライの『不思議の国のアリス』は、異彩を放っている。カーライのテキストとイラストレーションに対する考え方が凝縮された作品の一つでもある。
通常、文学に付けられるイラストレーションは、補完的な役割としての挿絵と見なされることが多いが、カーライのそれは、キャロルの『不思議の国のアリス』とカーライの『不思議の国のアリス』をあたかも合本したかのような印象を与える。カーライにとって、書物とイラストレーションの関係は、原作を自分が書いているかのように解釈することである。イラストレーションは、テキストの意味的解釈ではなく、ましてや単なる場面や情景の説明でも視覚化でもない。徹底した批評行為なのである。そのために、テキストと同時並行で展開するもう一つの絵物語として見ることができる。違う言い方をすれば、テキストによる物語の上にイメージによる物語が層になって重なっている。読者は、テキストとイメージが交錯する独特の空間に誘われるのである。
カーライは、「イラストレーションを描いている途中で、作家と会うことがとても嫌い」だという。テキストはすでに完成されたものであり、解釈は、作家が思ってもみなかったことを表現することもあり得るとの見地からだ。「イラストレーションがテキストの説明をするだけのものだったら、面白くも楽しくもなく、私はイラストレーションなんか描いていない」という言葉が示すように、「テキストからどの位自由に描けるか」は、カーライにとって、重要な考え方になっている。
「文章の中にある物語をどれだけ視覚的表現で豊かにできるか」「新たな詩的語法へと移しかえることができるか」であり、テキストから受けるインスピレーションを大切にする。そのために、「時にはテキストのことを忘れることも必要」だという。(注)
テキストは、すべてを表現しきっている訳ではない。背後には文字化されない言葉やイメージを内包し、テキストは、見える言葉と見えない言葉のつながりで成り立っている。『不思議の国のアリス』のように、背後にある言葉が豊かな創造的で詩的なテキストは、多様な解釈を可能にする。『不思議の国のアリス』は、他の作家同様、カーライにとっても想像力を掻き立てる理想的な対象(テキスト)だったに違いない。
どのような原作に対しても、視覚化するには多かれ少なかれイラストレーター自身が現れるが、カーライはより強く、むしろ意識的にテキストと向き合う。原作者と同じ位置に自分を置くのである。アリスの描かれた最初のページを見てみると、そこに立つアリスは、一九七九年に制作された「ダニツァの小劇場」を原形にしている。テニエルのアリスとは異なる少女像が描かれているが、ダニツァは、カーライの母であり、このタブローは、一九二七年に撮影された母ダニツァの肖像写真を基にしている。アリスに母ダニツァを全面的に投影している訳ではないが、自分自身の記憶や心の動きが重なっていることがここからも想像できる。
カーライのイラストレーションには、妻カミラと思われる女性や自分が描かれることがある。テキストの解釈であると同時にカーライの内面の表出でもあるからだ。カーライにとってイラストレーションは、テキストの森に分け入り、自らの目でゆっくり微細に観察しながら解釈していく批評行為である。自ずとカーライの心情や世界観、思想と無関係ではあり得ない。

ドゥシャン・カーライの表現

解釈することは能動的な創造行為であり、解釈は創造力の産物でもある。読者がテキストと関わることが自由であるように、イラストレーターにとっても自由なものである。テキストに束縛されることもなければ、テキストから遊離もしない。それがカーライのイラストレーションに対する考え方であり、本質を見極めていればキャロルによる物語の骨格が揺らぐことはない。
アリスの読者は、テキストからどのように幻想的な世界を色彩や形で思い描くかを、カーライは想像する。同時に自らも読者として解釈を楽しむのである。しかしそれは、テキストに対して自由でありながら、絶えず言葉を意識しイメージをつなぎ合わせることでもある。
カーライの版画やイラストレーションには、しばしば鳥が登場する。イワン・ヤンチャール(ブラチスラヴァ市立美術館館長)は、「高度テクノロジー社会と動物の『楽園』の矛盾を描いている」と指摘する。鳥は、「楽園」の象徴であり、人間、自然、テクノロジーは、カーライの表現に通底するテーマだろう。
ファンタジーであれ、どのような表現も日常や社会と無縁ではない。カーライの表現の特徴は、徹底した事物、人間、自然、社会に対する観察であり、目に見える世界だけでなく、見えないものを形にしていく。いわば精神的な世界を描いていくことでもある。カーライは、キャロルの言葉を引用して「世界というのは、実際目に見えている姿とはまるで違う姿をしている」と語っているが、文学者が表そうとする形とイラストレーターが表そうとする形は同じではない。当然語法も異なる。
カーライの表現には、版画、アニメーション、グラフィックなど、メディアの横断による独自の時間と空間に対するとらえかたがある。人間と自然、建物、動物などが絡み合う重層的な時空間をつくり出し、それぞれが動きを伴い関係づけられる。目の表情、手の表情や動き、それぞれがメッセージを発し、読者に語りかけてくる。描かれているもの、それぞれが言葉でもあり、詩的言語として構造化される。読者は、そこに立ち現れる世界を楽しみ、自らの想像力を働かせる。カーライが提示するイメージは、テキストに想像力を働かせるのとはまた違った世界に誘ってくれる。「イラストレーションを描くことは、文学の哲学と造形の哲学を近づけること」、これはカミラの言葉であるが、『アンデルセン全集』を共同で制作した二人に共通した哲学といえるだろう。 (いまいよしろう 武蔵野美術大学教授)

(注)取りあげたカーライの言葉は、『ドゥシャン・カーライの超絶絵本とブラチスラヴァの作家たち展』図録・板橋区立美術館・二〇〇九年のインタビュー記事を中心に、二〇〇七年絵本学会大会講演記録・武蔵野美術大学およびDušan Kállay A magical world
・Slovart ・二〇〇四 による。