日宣美とシルクスクリーン・ポスター

今井良朗

日宣美と公募展

日本宣伝美術会、いわゆる日宣美が誕生したのは、1951年6月、山名文夫、新井静一郎、河野鷹思、亀倉雄策、原弘、今泉武治、高橋錦吉が世話人となり発足した。日宣美第1回展は、選抜された会員70名による88点が出品され開催された。そして、1953年第3回展からは、公募形式をとるようになり、新人の登龍門としても注目されるようになった。
ポスターを中心にした公募形式が、画壇の公募サロン化と同様の弊害を招くのではないか、宣伝美術という新しい社会機能に見合った合理的な構想はないのだろうか、といった疑問も一方では投げかけられるが、応募点数は回を重ねるごとに大幅に増加していった。1950年代、グラフィックデザインは敗戦後最初の高揚期を迎えるが、これも日宣美との間係を抜きにしてはあり得なかった。
日宣美の一般公募展を契機に、50年代半ばから戦後派第二世代の有力な若手新人が次々に登場する。日宣美の最高賞は、会員のために日宣美会員賞、一般公募には日宣美賞が与えられた。日宣美賞の受賞は、特選、奨励賞とともにその後の活動に影響を与えるほど大きな意味を持つようになったのである。
1955年日宣美賞の粟津潔『海を返せ』以降、1956年、杉浦康平『LPジャケット』、1957年、和田誠、稲垣行一郎『夜のマルグリット』、1958年、勝井三雄『ニューヨークの人々』がいずれも日宣美賞を受賞した。田中一光は、1958年に『産経観世能』を発表、1959年に『ニューヨーク、タカシマヤテキスタイル展』で日宣美会員賞を受賞している。彼らは、表現スタイルを確立し、デザイナーとしての位置を確かなものとした戦後第一世代と異なり、それぞれ独自の主張を試みようとしたところに特徴があった。彼らには、日宣美創立期の第一世代のような共通の活動基盤、運動体意識はなく、日宣美を足掛かりに登場した新人である。受けた教育も異なり、考え方や表現方法は必ずしも同じではなかった。ただ、日常的には商業主義がデザインを支配する中で、デザイナーの主体、デザインの本質や可能性を、日宣美という場を借りてそれぞれの立場から模索していた。
1970年に日宣美は解散するが、戦後の啓蒙期から1960年の世界デザイン会議と日米安保闘争をはさみ、デザイン概念の広がりと変革期が重なる。日宣美の20年は、時代の節目を経ながら、日本のグラフィックデザインが歩んだ歴史の中でも、とりわけ重要な役割を担ったことは間違いない。それは、グラフィズムの高揚と変容のうねりを歴史的事象として、わずか20年の中に濃密に捉えることができるからである。

シルクスクリーン・ポスターとサイトウプロセス

日宣美展出品のポスターとシルクスクリーン印刷(1)との関係は、戦後グラフィックデザインを語るうえで欠かせない。中でも下落合にあったシルクスクリーン印刷工房サイトウプロセスは、伝説の工房として語り継がれてきた。サイトウプロセスは、日宣美が公募を始めた翌年、1954年に斎藤久寿雄によって設立された。公募に合わせた訳ではないが、結果的にこの工房は、日宣美解散まで日宣美展出品ポスター制作の中心的な場として機能し続けた。
日宣美展に出品されるポスターは、すべてが使用された印刷物ではなく、当初個人的な制作はポスターカラーで手描きされたものがほとんどだった。一般公募のために数枚をオフセット印刷することなど考えられなかったからである。その点、スクリーン印刷は、少部数の印刷に適していたし、印刷された不透明インキの質感とマットな調子がポスターカラーに近いことも親近感があっただろう。
サイトウプロセスが手がけた最初の日宣美展出品ポスターは、1955年板橋義夫の『DANGER FIRING ZONE KEEP OUT』で、グラフィック’55展を機に大橋正の『明治ミルクチョコレート』が生まれた。原弘、河野鷹思、亀倉雄策が続き、その後、歴史に残るシルクスクリーン・ポスターが次々につくり出されていくことになる。これらのポスターは、日宣美のために制作したものが多く、企業名が入ったものでも商業的制約から一歩距離を置いて、独自の解釈から制作したことも特徴といえる。
スクリーン印刷を扱う会社は他にもあったが、サイトウプロセスが独特の工房になり得たのは、斉藤の人柄と日本作画会のころから親交のあった粟津潔の積極的な関わりだろう。粟津からはじまり杉浦康平、田中一光、宇野亜喜良、細谷巌、和田誠、木村恒久ら若手デザイナーにつながっていった人の輪が工房を支えた。そして、学生も含め20代のデザイナーの研鑽の場にもなっていった。まさに若手デザイナーと学生のたまり場だったのである。
一方で、「若い作家たちに交じって、亀倉雄策、大橋正さんも負けずにやってきて、『ここへこないと』気遅れするのだという意味のことを、もらしていたことを憶えている」(2)と粟津が述懐しているように、世代を超えた制作の場でもあった。
斉藤は、“サイトウのオジサン”と慕われ、採算を度外視して面倒をみていた。単なる印刷工場ではない、さながら私塾のような環境が、木村恒久のいう“サイトウ道場”にしたのだろう。スクリーン印刷は、当時商業印刷からみれば手工的なマイナーな印刷技術に過ぎない。しかし、デザイン教育の現場では、ポスターカラーで描くことが一般的だった時代に、製版から印刷までを一体的に自らの身体で感じ取れる喜びと興奮は、並大抵でなかったことは、スクリーン印刷と関わったその後の私の経験からも想像できる。
斉藤は、印刷工場の経営者としてはちょっと変わった人物には違いない。1940年上京後、三六工房の写真部に籍を置き写真とデザインに触れ、奥山儀八郎から木版の彫りを学んでいる。その後報道技術研究所、日本作画会、キネマ旬報を経てサイトウプロセスを起こした。三六工房での徹底した複写技術、木版のカッティング技術、見て学んだというデザイン、映画への関心、すべてがスクリーン印刷に生きたという。
サイトウプロセスには、手切りの名手がおり、長い間ハンドカッティングにこだわった。油紙を手で切って型紙を作りそれをアイロンでシルクスクリーンに貼りつけ印刷する手法である。粟津の『野盗、風の中を走る』、杉浦の『東響』も熟練した手切りの技がつくり出したものである。
スクリーン印刷の特徴は、原稿から製版、印刷までのプロセスが見えるところにある。数枚でも印刷できるし、その場でインキの色を変えたり、刷り順を変えたりできる自由度もある。そこには試行錯誤が常に伴い、偶然性や意外性を持っている。サイトウプロセスの持っていた技術力、職人技が背景にあったといえ、一人ひとりが版と格闘し瞬時の判断が求められる作業工程は、最後まで緊張を強いられる。結果や予定に合わせるというより、模索しながらの作業は、まさにもう一つの学校であり、道場だったのである。そこは、商業的制約や教育の現場から解放された独特のグラフィック表現を生み出す磁場でもあった。
「多くのデザイナーがサイトウ道場を熱中の対象としたのは、絶えまない本道からの離脱反逆を図る親方の『酔狂』さにあったのではあるまいか」(3)と木村は語っているが、この道場は技術的修練の場を超えた熱気と空気を醸し出していた。日宣美が社会的に注目され、広告の需要が高まる一方で、若いデザイナーや学生は、悶々とした気持で、真剣にデザインや表現することの意味を問い続けていたのである。木村はさらに「サイトウ道場の特色は、この仕掛人の挑発を不敵な柔構造でもって『からめとる』懐の深さにあった。サイトウ道場での出来事は、アイマイな“技法”とアイマイな仕掛人の“手法”とが、共鳴し合い融合した過渡期特有の象徴的なでもあった。そして今やそれは神話の領域に属している。」(4)と振り返っている。

1960年代のシルクスクリーン・ポスター

1960年、日本で初めての世界デザイン会議が開催された。日本のデザイン界は、啓蒙期から新たな時代を迎え、初めて国際社会での共通の基盤に立って、デザインの問題が語られた。デザインの社会的機能、役割が問われ、日本のデザイナーは、産業や商業的側面以外の多様なデザインの分野を目の当たりに知らされた。それは、グラフィックデザインからヴィジュアルコミュニケーションデザインへの広がりであり、デザイナーは、新たな可能性を感じ取ろうとしていた。
1960年の第10回日宣美展は、デザイン会議とともに安保闘争の高揚と挫折という時代状況を反映していた。学生を中心にした若い世代から新しい傾向の作品が出品された。パネルキャンペーンの手法による、メッセージ性の強いコミュニケーションを意識した表現もその一つで、個人的作家性を否定したグループ制作も目だった。日宣美賞は、森啓、小森駿一郎、斉藤充の合作によるパネルキャンペーン『科学技術と人間生活』が受賞した。B全の写真に図形や文字をシルクスクリーンで印刷した6点からなるポスターである。この年特選を受賞した小谷育弘(靖)、広瀬郁、柴長文夫の『ロッキード取りやめの日』他3点も同様のパネルキャンペーンだった。小谷、広瀬、柴長は当時武蔵美の学生だったが、書籍ポスター『見る前にとべ』で特選を受賞した平野甲賀、後藤一之、『若い女性』で特選の新正卓、飯森恪太郎も武蔵美の学生だった。奨励賞、入賞を含めると武蔵美の学生が多数を占め、話題になった。
第10回日宣美展は節目を迎え、公募形式に新たな転換を求める声が内外から出始めていた。この年、公募受賞者と会員による座談会「グラフィックデザインの方向と日宣美に求めるもの」が行われ、日宣美会員誌『iaac』7号に掲載された。出席者は会員から粟津潔、木村恒久、永井一正、受賞者は、後藤一之、平野甲賀、小森俊一郎、小谷育弘、森啓、柴長文夫が参加した。そこでは、「技術と思想」「デザイナーかコミュニケーターか」「デザインの根本的問題点」「企業とデザイン」「デザイナーとディレクターの二面」「日宣美の新しい歩み」について意見を交わしている。そこからは、グラフィックデザインに対しても日宣美に対しても、考え方が同じでないことが浮かび上がってくる。それは会員間でも同様で、建前から語りつつも、すでにそれぞれが異なった視点からデザインを模索する姿勢がうかがえる。
公募作品には、早くから社会的問題や大衆性を意識したものが増えていたし、受賞作品に占める割合も大きくなっていた。日宣美は、新人の登竜門として機能しながらも、すでに現実のデザインとのギャップ、会員組織としての矛盾を抱えていたのである。
問題点が顕在化していく中で、状況劇場のために制作された横尾忠則のポスター『腰巻お仙一忘却篇』(1966年)は大きな衝撃を与えた。
演劇、映画の分野でも、既成の枠を打ち破る新しい傾向が台頭していた。アングラ演劇と総称された小劇場運動は、大きな盛り上がりを見せ、状況劇場、早稲田小劇場、自由劇場、天井桟敷、演劇センター68/71・黒色テントなどが次々に登場した。小劇場運動の求心的エネルギーは、反権力を指向する若い世代に指示され、多くの若いエネルギーを巻き込んでいった。カウンターカルチャーと変革への動きは、アメリカ、ヨーロッパ、日本など連鎖反応的に巻き起こった世界同時発生的な出来事だった。
グラフィックの分野も例外ではなかった。前衛演劇にふさわしいポスターが若いデザイナーを中心に次々と作り出されていった。横尾忠則、粟津潔、宇野亜喜良、篠原勝之、平野甲賀、及部克人、串田光弘、井上洋介、辰巳四郎らによって制作されたポスターは、単なる告知的機能を超えて演劇と一体的関係を持ち、共有するイメージをメッセージとして視覚化しようとしていた。演劇を通して、自己の中に意識されるもの、イメージされるものをそのままの姿で表現しようと試みたのである。それは、自立性を持った個の表現であると同時に、社会そのもの大衆の潜在的エネルギーの表現でもあった。
このような一連の動きは、日宣美の華やかな側面とは別に、アングラ演劇に代表されるポスターが表出した文化運動の表現として、等価に見ておく必要があるだろう。また、サイトウプロセスは、日宣美展出品ポスター制作の中心的な場だったが、アングラ演劇ポスターの中心は、ワイズプリンティングという実験印刷工房だった。サイトウプロセスから独立してつくられたこの工房は、横尾や平野のポスターを輩出したもう一つのスクリーン印刷の拠点であった。

ムサビとシルクスクリーン・ポスター

シルクスクリーン・ポスターは、この時代を象徴するメディアとなり、アートに接近していくものから、挑発的なアジビラまで、さまざまな形で社会的作用を及ぼした。教育の場にスクリーン印刷が導入されたのもこの頃である。
粟津潔が武蔵野美術大学で指導するようになったのが、1962年、翌年には商業デザイン専攻(現視覚伝達デザイン学科)の専任講師として着任した。この時の主任教授は原弘で、岡井睦明、石川三友が教授、森啓が講師として加わっていた。いずれも日宣美と関わりが深かった。印刷工房と写真工房、映像工房の整備が始まったのもこの頃である。
私が在学した60年代後半には、小谷育弘、及部克人、広瀬郁が講師として加わっていた。森は印刷実習を担当していたが、活版印刷や印刷による構成実習、タイポグラフィ演習は、ポスターカラー全盛の時代にとても新鮮だった。工房にはスクリーン印刷の設備も整い、放課後に行くと、革命的デザイナー同盟のチラシやポスターが散乱する光景は、当時の時代性を反映していた。
その後、1979年から石川が印刷実習を担当し、本格的なスクリーン印刷による実習が展開していった。1983年から私が工房を引き継ぎ、フォトモンタージュしたものをスクリーン印刷で表現する実習を1993年まで続けた。スクリーン印刷は、構想から完成まで目の前で確認できることに意義がある。それも、その過程で全身体を駆使するところに面白さがある。構想では頭を使い、製版から印刷の直前までは、感覚的作用と瞬時の判断が求められる。そして最後は肉体を使った力技である。それぞれ力の入れどころは違っても、そこから学ぶものは大きい。近代以降のデザインがどのように発展してきたのか、構成やモンタージュの語法を実感として把握し、印刷表現=グラフィックに定着させる作業は、当時有効な方法だったと思う。
シルクスクリーン・ポスターの収集と保存、教育への活用もその延長線上にあった。

日宣美は、さまざまな批判にさらされながら20年続いた。60年代末は、あらゆる分野で、敗戦後日本が抱えてきた矛盾が一気に浮上した時代である。日宣美の解散は、戦後日本の近代デザインにおけるひとつの時代の終焉ではあったが、果たした役割は決して小さなものではない。組織的矛盾も方向性が定まらないことも宿命的なものであった。思想も拠って立つ基盤も異なるデザイナーが、世代を超えて交差する場所でもあった。グラフィックデザインとは何か、本質的な問題を問いかけるための受け皿として、装置として機能していたように思う。
アートとの境界が曖昧な、限定されたポスターというメディアが中心であったために、結果的に時代に翻弄されながらも社会を映し出す鏡になった。残されたポスター群は、デザイン史のみならず、歴史的資料として重要な意味を持ち続けていることを忘れてはならない。
私がサイトウプロセスの工房を訪ねたのは1978年、すでに老朽化した建物にかつての熱気はなかった。それでもサイトウのオジサンは、4色分解のカラースクリーン印刷に取り組み、新たな表現の可能性を熱く語っていた。美術資料図書館にポスターを寄贈してもらうために何度も訪ねていったのだが、使っている形跡のない2階の押入に山積みされたポスターを最初に見たときの感動は、今でもよみがえる。数日間かけて、ポスター一枚一枚にはたきをかけ整理していった。次々に現れる亀倉雄策、原弘、粟津潔、杉浦康平、田中一光、和田誠らのポスターに触れながらの作業は、このうえない至福の時間だった。
サイトウプロセスから寄贈された約500枚のシルクスクリーン・ポスターは、現在でも特別の意味を持つ貴重な資料である。

(1) 型紙を木やアルミの枠に張られたスクリーンに貼り、絵柄以外の部分にインキが通らないようにスキージーを移動させ印刷する孔版。60年代以降は、スクリーン面に感光膜をつくる写真製版法が主流。シルク以外にナイロンやテトロンを使うことが多く、スクリーン印刷またはスクリーンプロセス印刷と呼ぶのが一般的。
(2) 「エコール・ド・シモオチアイ」粟津潔『デザイン』11月号、美術出版社1978年
(3) (4)「サイトウプロセス道場入門記」木村恒久『デザイン』11月号、美術出版社1978年

「日宣美とシルクスクリーン・ポスター」『デザインアーカイブ50s-70s』展覧会図録 
武蔵野美術大学美術館・図書館 2012年5月