今井良朗
沈黙すること、語りかけること
ポーランドのポスターを一望すると、顔を題材にして表現したものが圧倒的に多いことに驚かされる。大半は映画、演劇、音楽、展覧会などのポスター、それと今展覧会では取りあげなかったが、サーカスのポスターである。
顔の表現といっても、多様でおおよそ私たちが見慣れているものと違い、不気味なものや異様な表情が眼前に現れる。アルフレッド・ヒチコックの映画『めまい』(図)やアンデルセンの『雪の女王』(図)のように、よく知られた映画、演劇のポスターも、まったく表現が異なる。1950年代から80年代は、このようなポスターが街中のポスター・スタンドに掲示され、市民の中にも溶け込んでいた。決してギャラリーの中の作品ではない。
映画、演劇、音楽、展覧会、サーカスは市民の娯楽として親しまれたが、愉しみだけでなく、怒りや絶望、不安が交錯する複雑な日常と、映画や演劇の題材とポスターがつながっている。
アンジェイ・ワイダーは、『地下水道』(’56)『灰とダイヤモンド』(’58)で、世界的に注目されるポーランドを代表する映画監督として知られている。2014年4月には、元大統領レフ・ワレサを描いた『ワレサ−連帯の男』が日本でも公開された。2007年に発表された『カティンの森』は、1942年の「カティンの森事件」を映画化したものだが、ワイダー自身にとって記憶の中に深く刻み込まれた事件である。陸軍将校だったワイダーの父親も捕虜として軍人や聖職者らと共に銃殺された犠牲者であるからだ。
社会体制や政治に翻弄されるがゆえに強烈に個を意識し、ワイダーも自己の中に内在する問題意識と映画のテーマを同化させる。それは内面の描写を超えたものであり、描写される世界は、ポーランドの人々を取り巻く日常そのものであり、現実でもある。それは、映画ポスターを描く作家にとっても同様であり、映画のテーマを描くだけでなく背景にある共通した問題意識の上に成り立っている。
これはポーランドが歩んだ歴史と無縁ではないだろう。ポーランドは9世紀から長い国の歴史を持ちながら、国土の分割や消滅などヨーロッパの激動の渦に巻き込まれてきた。1772年にロシア、プロイセン、オーストリアがポーランドを分割(第1次)、1793年、第2次ポーランド分割で半分の国土を失い、1795年の第3次ポーランド分割でポーランドは消滅した。
それから123年後、第1次世界大戦の最中、ロシア革命、ドイツ帝国の崩壊を機に1918年に独立を回復するが、それから21年後の1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻から第2次世界大戦が始まった。ポーランドはナチス・ドイツとソヴィエト連邦(ソ連)に分割占領され、再び消滅する。ワルシャワは、ナチス・ドイツ軍によって、ほぼ全域が破壊された。さらに、ナチス・ドイツ軍のソ連侵攻、ソ連の連合国側参加、ナチス・ドイツ軍の敗戦と複雑な経過の中で第2次世界大戦の終結を迎える。
ポーランド亡命政府は、共産主義系解放委員会と挙国一致政府をつくり、1952年ポーランド人民共和国となったが、ソ連によって占領された東側は戻らなかった。以来社会主義国として、ソ連の影響下に置かれてきた。
自由選挙による市民会議「連帯」の勝利と大統領制の復活した現在のポーランド共和国の出発は、1989年のことである。その間、食肉価格の値上げが発端になった全国的な労働者のストライキ(1980年)、自主管理労働組合「連帯」の結成と戒厳令による「連帯」の非合法化と苦難の歴史をたどった。
ポーランド国民は、外と常に向き合い、自らの存在を確認しなければならなかった。それが自らのアイデンティティを、さらには国のアイデンティティを一層意識することになったのだろう。精神的抑圧を受けながら培われてきた体制への抵抗、民主化を求める動きは、個の解放を願う強い意識として働いていたはずである。作家にとって制作環境はある程度保証されていたが、物理的にも精神的にも決して安定していたわけではない。ポーランドのポスターには、こうした社会的背景が常に横たわっており、それがポスターを表現する大きな力になっている。
中でも、顔やマスクによる表現は、あたかもポーランドのポスター全体に通底する様式のようでもある。ポーランドの時代性や社会がつくり出した様式でもあるが、政治や社会に対する怒り、不安、同時に芸術の置かれた環境に向けられる感情は、絵にも映画や演劇にも表れる。人は、苦悩、孤独の中では夢想することや現実からの逃避に快楽を求めるが、自己の存在に対する問、他者への愛情、憎悪、権力者に向ける眼差しなどが複雑に絡み合う。
極限の中での関心は、生きること、自らの「いま」を見つめることであるが、かつての記憶を蘇らせ、さらに未来に想いを馳せ自らの「生」と「死」を確認することでもある。人は大声で怒りを表すこともあれば、静かに悲しみを心に留めたり、切々と愛を語ることもある。しかし、人の情動や感情をイメージすることはできても、視覚化し見える形にするのは容易なことではない。まして複雑な感情を秘めているとなればなおさらである。背景や状況の説明をあえて取り除き、人間そのもの、顔に着目していったことも自然な流れだったのかもしれない。
このような歴史的、社会的事情が、人間、顔を媒介に、「私」と「他者」に向けられる眼差しがポーランド特有の肖像という表象をつくり出したのではないか。内側と外側に向けられる眼差しを異なった視点から表す手法として、アレゴリー(寓意)やメタファー(隠喩)は有効であり、マスクや仮面が頻繁に描かれることもうなずける。そこには、覆い隠さなければならないもの、見えない言葉があるが、同時に生きることの喜びも表れる。サーカスのポスターも数多く制作されたが、そこに描かれる道化師ピエロもまたマスクや仮面の表象と無縁ではあるまい。
映画や演劇、サーカスを娯楽として愉しむ一方で、生きていくうえでの知恵、個と集団、さらに社会との関わりを現実の人々との関係の中に見出したのだろう。ポスターに描かれる世界は、作家個々の様式でもがあるが、ポーランドの人たちの共通の時代と社会に対する認識によって支えられている。ポスターは、映画や演劇と同じように国民の日常に根ざしたアートであり、購入の対象になり、室内に飾られ観賞の対象にもなった。街中に多く見られたポスター・スタンドとそこに貼られたポスターは、多様なメッセージを発し市民をつないでいた。日常の風景もまた「私」と「他者」をつなぐ重要な「場」だったからである。
第2次世界大戦後、戦火で破壊され跡形もない旧市街を、再開発をせず元の状態に復元することをいち早く決定し、実現させたことは象徴的なことである。残っていた戦前の正確なスケッチを基に、旧市街市場広場の周りには住宅やカフェなどがかつての姿を残し取り囲む。破壊された街中の城壁の一部も撤去されずに残されている。
目に映る風景は、過去の記憶を蘇らせ、苦難な時代を乗り越えて生きてきた悲しみだけでなく喜びや愛情を想起させる。自らのアイデンティティの拠り所となる原風景は、歴史の記憶、生きた証として、目に見える形での街並みの再現は必然だったのだろう。
イメージの表出
顔は、自画像、肖像画、肖像写真、諷刺画として古くから扱われてきた題材であり、時代性と文化性を帯びた社会的記号である。人間に対する関心、生きることへの関心が背景にあるにしても、ポスターにこれほど一つの様式として受け継がれていることは特異なことといえよう。そして、海外の影響を受けながらも、ポーランド独自の解釈と方法論が失われることなくそれぞれの時代を通じて感じることができる。歴史観や社会観、伝統に対する認識は、世代によって異なった形で現れ、記号化する手段は変化していったが、そこには通底する何かがある。
では、ポーランドのポスターの独自性はどのような背景から生まれたのか、肖像が頻繁にポスターに登場するようになったのは、いつごろからだろうか。第2次大戦以前のポーランドのポスターを見ると、同時期のヨーロッパの表現とほぼ同様の傾向が見られる。表現主義や構成主義による実験的なポスター、カッサンドルを彷彿させる幾何学的構成などがそうである。近代デザインの潮流は、ポーランドにも流入している。当然商品のための広告ポスターも珍しいことではなかった。しかし、1945年社会主義国としてソ連の影響下に入っていくのを境に、ポーランドのポスター事情は大きく変わっていく。まず商業ポスターが必要なくなったことや、ポスターに政治的プロパガンダが求められることによって、ポスターの機能や役割が変わったことだ。映画や演劇、音楽、展覧会、サーカスなど文化的なポスターが主流を占めるようになっていった。
ズジスワフ・シュベルトは、第2次大戦後の転機を、政治的プロパガンダをとりあげたポスターがある一方で、「映画ポスターを土台にして、ポーランドのポスター芸術のまったく新しい一面が発展し始めた」ことだと述べているが、とりわけ、ヘンリク・トマシェフスキの存在の大きさを挙げている。(註1)
トマシェフスキは、統制の厳しい環境の中で表現のスタイルを崩さなかった。むしろ文化的なポスターに新たな表現の可能性を見出そうとしていた。映画や演劇、音楽をはじめ国家の統制下に置かれながらも制作の環境が比較的自由で、創造的な表現が可能だったことも大きい。抽象化された形態は本質を突き詰めていくと同時に多様な解釈を可能にし、寓意やメタファーによる絵画的な表現の魅力を引き出した。しかし何よりも、1952年からユゼフ・ムロシュチャクと共にワルシャワ美術アカデミーで教鞭についたことによる影響がある。ここから「ポーランド派」と呼ばれる多くのポスター作家が育つ教育の基盤が整った。トマシェフスキがポーランド・ポスターの父とよばれるのは、解釈と批評性を重視し、戦前世代の洗練された造形の特徴と次の世代の創造性をつなぐ重要な役割を果たしたからだろう。
ヤン・レニツァは、早くから顔の表現に着目した作家の一人だが、1954年から56年まで ワルシャワ美術大学でトマシェフスキのアシスタントを務めている。レニツァは、映画の制作、舞台装置、評論など幅ひろい分野で活躍するが、映画ポスターに独自の方法論を持ち込んだ。コラージュやフォト・モンタージュを使用したが、それもより顔の表現に焦点を合わせた手法である。このコラージュやモンタージュの技法は、ダダイズムやシュールレアリスムの中で積極的に使用された。また革命後のロシアでは、前衛美術運動として、さらには政治的プロパガンダの手法として使われたが、レニツァは絵画的な表現を活かした。モンタージュの技法は、映画制作上の重要な語法であるが、政治的プロパガンダが意味的要素の結合や操作として用いたのに対して、レニツァは、比喩や象徴性を際だたせ、シュールレアリスムなどの表現に内包する詩的メタファーや寓意性を多用した。
たとえば、私たちが日常見慣れている映画ポスターは、登場する男優や女優のポートレートである。レニツァは、背景にあるテーマを独自に解釈し、表現の対象を登場人物の心理描写や人物像に向けていった。映像言語を新たな視覚メッセージ、視覚表象として提示していったのである。実験的な試みは、シュールレアリスム、表現主義など同時代の思潮を融合させながら独自の表現を生み出していった。1963年のポスター、フランス映画『大いなる幻影』(図)では、コラージュとフロッタージュによって、軍人と捕虜の対立や交流を軍服姿の肖像として表現する。見る者はそこに立ち現れる民族や国家、戦争を想い、想像力を働かせる。
絵画的な表現によるアート・ポスターの新しい形式が定着していったのである。それは、イラストレーションとしての表現に価値を見いだすものであり、作家の個性を前面に出すものだった。
ロマン・チェシレヴィチもまた、コラージュやフォト・モンタージュによる表現を積極的に行った。アルフレッド・ヒチコックの映画『めまい』やフランツ・カフカの演劇『審判』(図)のポスターは、装飾性を排し、色彩を抑えたモノトーンのモンタージュで構成されている。グラフィック・デザイン、写真を活動の中心にしたチェシレヴィチらしいが、映画や演劇の題材を独自に解釈し、平面的なポスターにチェシレヴィチによる物語性を持たせている。
ヴァルデマル・シフィエジは、徹底して肖像を描いたことでは際立っている。特に1970年代以降はほとんどがそうであり、制作したポスターは約2,500枚にのぼる。しかし、これだけの制作を重ねながら一定のスタイルを持たない。表現したいこと、その延長に表現の方法や素材、組み立て方がある。シフィエジが描くのは実在の人物であり、対象の観察や対話から生まれる。シフィエジにとっては、ポスターである前にデッサンあるいは絵としての肖像である。
シフィエジは、絵画とグラフィック・デザインを学んだこともあり、多彩な技法を取り入れる。60年代後半には、ポップアートも取り込むが、「最初は魅力的でしたが、後には死ぬほど退屈になってしまったのは、あらゆるものがトレンドとなって、広がってしまうからです」と述べている。シフィエジは、新しいものを考えなしに受け入れることを嫌い、思考の同質性と継続性を主張する。そして、「仕事に対する喜びの気持を失わないようにしています」(註2)というように、ユーモアや愛情を大切にしながらも、批評性や諷刺的態度を崩さない。長い間美術大学で指導したこともあり、ポーランドの肖像ポスターに与えた影響は大きい。
シフィエジの肖像に対して、フランチシェク・スタロビィンスキが描く絵は、幻想的であると同時に不気味でもある。美術大学で絵画を専攻したスタロビィンスキは、ポスターに絵画的手法をより積極的に取り入れた。生と死、意識と無意識、エロスなどを題材にしたポスターは、比喩的表現が一層明確に表れる。
スタロビィンスキにとって、幼年期の大洪水や戦争の光景が記憶として深く刻まれているという。(註3)戦火のなかでは、生きることを脅かされるし、自己を形成していく環境は、異なった価値観や文化の侵入にさらされ、足もとの定まらない自分と常に向き合わなければならない。イメージや感情には、子どものころからの記憶が編み込まれている。心的作用は、こうした記憶と経験、知識などがつながり情動として表れる。
スタロヴィンスキの記憶は、いまという〈時の中〉に蘇り現在性を持つ。単なる過去の記憶ではなく、それは個人の記憶にとどまらない。記憶は異なった時間や場の経験、知識も加わり、他者との関係性も組み込まれ、記憶とそこから想起するイメージ、さらには感情が創造行為に向かう。つまり、そこには長い時間をかけて蓄積されたさまざまな記憶の断片と集積があり、いまに蘇り現在性を帯びるのは、あらためて記憶を接合しイメージを想起するからである。大洪水や戦争の悪夢、家族への愛情、幻想絵画への憧憬、それらが渾然と織りなされた世界である。
スタロヴィンスキは、想起するイメージを絵画的手法によってモンタージュしていった。写真による意味的接合とは異なったイメージの接合として表現した。しかし、それは一枚の絵画としてではない。映画や演劇に見出す物語性や象徴性にイメージを重ねたのである。
モリエールの戯曲による『ドン・ジュアン』のポスターでは、強欲で身勝手な貴族ドン・ジュアンがモノトーンで象徴的に描かれるが、だれをも特定しない。顔は目に見立てた女性の胸と頭蓋骨で構成され、お尻から脚は男性とも女性とも見える複数の身体であり、足は馬のひづめである。(図)
スタロヴィンスキの作品には、頭蓋骨、ヘビ、鳥の頭、眼球、それに女性の裸体がしばしば登場する。変形された姿態はグロテスクでありユーモラスでもある。
顔が変形し奇怪なものとして映ったとき、見るものは戸惑い立ち止まる。メタモルフォーゼには、時間の経過が含まれている。立ち止まり凝視したとき過去へ、さらには未来へと誘われる。人が見ているもの、すべて同じとは限らない、見ていても見えていないものもある。表面に表れる苦悩や不条理の背後に、喜びや笑い、愛欲、さらに生と死が同居する。見る者は、作者が眼差す世界に引き込まれる。
このような独特の比喩的様式を持った絵画的ポスターは、海外でも注目されるようになり、やがて「ポーランド派」と呼ばれ、ポスター作家とともに欧米や日本のデザイン誌などに紹介されていった。もっとも、ポーランド派のポスターは、表現のスタイルや主義主張というよりは、作家の表現に対する姿勢や方法論に起因するものであり、その結果生じるアート・ポスターの新しいかたちと表現傾向の共通性を定義するものと見るのが自然だろう。この傾向は、時代が変わっていく過程でも形を変え生き続けていくことになる。その点から見れば、ポーランドのポスター独特の様式は60年代初頭に方向づけられた。
表現の多様性と固有性
若い世代の中には、ポスターの絵画的志向が強まることに対して反発もあった。この時期のポスター・デザインの潮流は、モダン・スタイルである。若い世代の中には、同時代的共通の基盤からポスターの表現をとらえ、積極的に海外の動きに呼応した新しい可能性を模索する動きもあった。また1960年代は、ポーランドのポスターが社会的にも定着し、国際社会でも高い評価を受けるようになっていった時代である。
1955年にスタートしたポスター・コンクールが1965年の「ポーランド・ポスター・ビエンナーレ」となり、1966年の「ワルシャワ・国際ポスター・ビエンナーレ」に発展していったのもこの時期である。このビエンナーレは、権威あるポスターの公募展として世界的にも知られるようになった。ポスター・ビエンナーレは、世界中のグラフィック・デザイナーの作品を通して、表現の手法の違いや背景にある文化に触れる場になった。アメリカのポップアート、日本の造形性など、ポーランドの作家がさまざまな形で世界の影響を受けても不思議ではない。
一方で、ビエンナーレがポスターの国際的な舞台になっていくころ、世界的な傾向として、社会変革、大衆社会を意識した新しい文化の動きがあった。既存の芸術、文化に対する批判と変革を求める動きが一気に高まっていたのである。カウンター・カルチャーと変革への動きは、欧米、日本など連鎖反応的に巻き起こった世界同時多発的な運動だった。社会主義国であるポーランドも例外ではない。そこには、政治や体制に対する不満がくすぶっていた。主役は学生を含めた若い世代であり、演劇、映画、音楽の分野でも既成の枠を打破しようとする新しい表現の傾向が台頭していた。ビエンナーレの影響は大きいが、造形上の単純な簡略、形式化された表現への疑問も表面化し、技術訓練所化した美術学校に批判的な動きもあった。1970年代はじめに登場した反体制色の強い若い作家の中には、主な活動の場から外されることも珍しくなく、不安と絶望、思想性がポスターにも表れている。それでも自主的な制作活動を根気強く続けていた。
このような状況に対して、シモン・ボイコは、「若者は進んで〈偽善や不条理、醜悪さや愚劣さに満ち溢れた現実の世界から目を逸らさずに、あるがままの姿を直視しよう〉とした」「そして一部の人の専有物化していた芸術は大衆文化と出会い、その接点から独自の創作活動が生まれ出た」と述べている。さらにその特徴として三つ挙げている。一つは、「絵画、彫刻、レリーフ、スケッチ、ポスター、イラストレーション、グラフイックスなど、いままでは独立した世界と目的とをもっていた諸技術の垣根を取り払って、自由に応用すること」そこから予想外の展開、新たな創造行為を生んだこと。二つ目は、素描に新たな意味を見出し、「哲学的思案とか世界観が表現されたものとして、素描をとり上げ」、中世以降の作品に新たな解釈を加えていったこと。三つ目は、「現実を滑稽でバカげた現象としてとらえ」「大衆視覚芸術の中の遊びの要素を、現代の若者たちも人生にもう一度とり戻した」ことを挙げている。(註4)
ヤン・ヤロミル、イエジ・チェルニァフスキ、ヤン・サフカ、エウゲニゥシュ・ゲト・スタンキュヴィチュらが、既存の体制に対する挑戦を前衛的な演劇、音楽、映画とのかかわりの中で表現することを試みた。表現の特徴は、絵画的表現を再び前面に出し、実験的な演劇や映画の前衛的表現と同化させつつ、人間の内面に潜む幻覚や深い欲望としてのイメージの形象化を意識的に表出させようとするものだった。それは、作家のイメージに支配されながら、一方で作家の意識を超えた人間や社会の内側にある不条理をあらわにするものであり、大衆の中に蓄積されたやり場の無いエネルギーの表現のようにも見える。
シュールレアリスムの影響が再び感じられるこれらの絵画的なポスターは、ポーランド派が掲げた作家の個性の徹底した探求という点では共通性を持っていた。ただ明らかに異なる点は、演劇や映画の題材を比喩的、象徴的に表現する中に、社会の不条理や痛烈な社会批判を内包させつつ人間の業そのものを探究したことだろう。このような70年代の顕著な表現の特徴は、1980年自主労組「連帯」の結成以後、戒厳令による政情不安と経済的危機という不安定な社会情勢の中に継続されていった。
しかし、70年代後半になると直截的な社会批判よりも身近なところで起こっていること、感じることをさまざまな側面から視覚化することが行われるようになった。強制されるイデオロギーに対して、否応なしに「私」を意識し、そこから「他者」や「集団」「社会」を意識したとしても不思議なことではない。「連帯」の活動に転換の可能性を重ねたことも無縁ではないだろう。
これまでも述べたように、顔を描くことは、自己と他者の在り方と向き合うことであり、どのような「他者」とともに生きているのか、「私」はどのような「私」なのかを問うことになる。肖像は、特定の対象を描くだけではない。不特定の集団の象徴としても作用する。描く行為は、政治、文化と密接に結びつき、その時代の世界観、人間性などを反映した社会と自らに向けられる眼差しでもあるからだ。
作家たちが見出したのは、ポーランドの人々が共有する記憶である。忌まわしい記憶もあれば家族が成長し生きる喜びもある。そこには、時と年齢を超えて内在する非日常的空想世界の豊かさと創造性がある。身の周りの社会や生活を徹底的に観察し、眼には見えないがだれもが感じ取っている不満や人間の欲望、夢想を肖像やマスクの姿を借りて、グロテスクにもユーモラスにも描き出した。ポートレートとしての写真は、特定の肖像であるが、絵画化された肖像やマスクは、記憶の表象となり、社会的象徴として現れる。
奇怪な肖像や姿として映ってもそこには人間の営みが反映している。作家が描き出す「世界」は、夢想や妄想も含め人々の日常から生まれるものであるからだ。精神的な抑圧や不自由さを感じていても、家族や恋人、友人、仲間との関係は本質的に変わらない。表面に表れる苦悩や不条理の背後に、喜びや笑い、愛欲、さらに生と死が同居する。映画や演劇に登場する人物像が描かれたイメージと接合し、見る者はそこに立ち現れる世界を楽しみ、自らの想像力を働かせることになる。一見不可解な形状は、人の視線を惹きつける。そこに描かれているものとの対話が始まり、相互作用が働くのである。作家たちは、メッセージ性以上にそこに起こる相互作用やコミュニケーションに注目した。
ヴイエスワフ・ヴァウクスキの現実を異質な文脈からとらえ、人物に重ね合わせたグロテスクとも思える表現は特徴的である。『ダントン』は、1983年に公開されたアンジェイ・ワイダー監督によって映画化された作品だが、このポスターから映画の内容を想像するのは難しい。1794年、フランス革命後を舞台に、国家公安委員会を率いるロベスピエールと戦うダントンの物語だが、そこには、連帯の結成から戒厳令、連帯の非合法化と、ポーランドの社会背景が重なる。ワイダーは、フランス革命後の不安定な社会と民衆の絶望や不安をポーランドの現状に見立てた。ダントンは、連帯のワレサ議長を暗示するともいわれるが、ヴァウクスキのポスターは、ストーリーも登場人物も表さない。充血した手が顔をわしづかむ奇怪な肖像であり、腕と身体は一体化した象徴的な姿態である。そこに現れるのは多くの人が感じとる現実であるために、さまざまな解釈を可能にする共通の言語になり得るのである。(図)
スタシス・エイドリゲビチュスは、日本で最も知られた作家の一人だが、その肖像は独特の表情を持っている。紙や粘土で覆われた顔、箱を被る人、のっぺりとした粘土のような顔、ボタンのような目、いずれも無表情で異様な静けさと影を感じるが、凝視していると背後からささやくように声が聞こえてくるようだ。
リトアニア生まれのスタシス・エイドリゲビチュスは、母親がリトアニア、父親がポーランド人で、1980年からワルシャワに在住する。スタシスは、絵本も手がけ、多くの国で翻訳され読みつがれている。彼にとっては子どもや大人のためといった区別はない。幼年期から現在に至る記憶と日々の観察から生まれる表象である。ポーランドに移ることを決意させたのは、国情と表現に対する厳しい検閲によるが、スタシスは、リトアニアとポーランド、二つの国に想いを馳せる。それぞれが自らの記憶と結びつき、イメージを紡ぐ源になっているが、スタシスにとっては、一国一地域の記憶にとどまらない。彼が体験してきたこと、感じてきたことは、人間社会に内包する共通の問題であり、一人ひとりだれにも関わる問題である。スタシスが描く肖像は、想像の所産であると同時に私であり、あなたであり、私たちみんなの中に内包することを語りかける。社会環境や文化が異なっても、生きることの根源的な問いは変わらない。スタシスの多彩なイメージのコラージュは、生活の営みや心の諸相を映し出す鏡と見ることもできる。(図)
幼年期の記憶は、ポーランドの作家にとって表現の源泉になっている。世代によって受けとめ方は異なるが、歴史と記憶は語り継がれ、それぞれの視点から現実を眼差す。多様でありながら独自の解釈と方法論が貫かれている。これも歴史観や伝統に対する認識の違いの現れだろう。レニツァとチェシレヴィチは、1963年にパリに移住し、以後生涯をポーランド国外で過ごすが、他国からポーランドに眼差しを向ける。スタシスは、リトアニアで生まれポーランドで過ごす。他国と自国、置かれた「場」は違ってもポーランドを意識し常に向き合い制作を続けたことが興味深い。
私たちは、ポーランドのポスターとどう向き合うかが問われる。それは一国の歴史と人々の記憶を超えて、共に生きてきた歴史があり、そこには人間の存在そのもの、人間社会固有の歴史と問題を内包しているからである。
『映像の修辞学』ロラン・バルト、蓮見重彦・杉本紀子訳、朝日出版社、1980年
『モダニズムの神話』多木浩二、青土社、1985年
『イメージ:ways of seeing 視覚とメディア』ジョン・バージャー、 伊藤俊治訳、パルコ出版、1986年
今井良朗「モンタージュと映画ポスター」『ポスターワンダーランド シネマパラダイス』講談社、1996年
『ポーランド アート・ポスター展−伝統と革新の半世紀−』展覧会図録、武蔵野美術大学美術資料図書館、1998年11月
『視覚論』 ハル・フォスター編、榑沼範久訳、平凡社、2000年(テオリア叢書)
『ヴィジュアル・アナロジー−つなぐ技術としての人間意識』バーバラ・マリア・スタフォード、高山宏訳、産業図書、2006年
『Polish Poster ‘50–’60 ポーランドポスター展 図録』松浦昇他編集、ポーランドポスター展実行委員会、2012年
矢萩喜従郎『視触 多中心・多視点の思考』左右社、2014年
『アイデア』no.123、1974年3月号、誠文堂新光社
『アイデア』no.186、1984年9月号、誠文堂新光社
『アイデア』no.194、1986年1月号、誠文堂新光社
『グラフィック・デザイン』no.71、1978年9月号、講談社
『グラフィック・デザイン』no.80、1980年12月号、講談社
『グラフィック・デザイン』no.82、1981年6月号、講談社
『グラフィック・デザイン』no.84、1981年12月号、講談社
『みづゑ』no.812、1972年9-10月号、美術出版社