絵本におけることばとイメージ

今井良朗

絵本はことばとイメージで構成されている

絵本はテキストと絵、すなわちことばとイメージで構成されている。それは単純に構成要素が文字と絵ということではない。ほとんどの絵本にとって、ことばとイメージは分かちがたいものであり、絵本における物語性は、両方の相乗作用によってつくり出されると考えられるからである。絵本では、時間的な流れは主としてテキストが、空間は主として絵が担い、複数の画面による空間がことばとイメージを関係づける。ことばとイメージ、どちらが主ということではなく、相互に関係しあっている。これが1枚の絵画とは違う絵本の持つ大きな特徴といえるものだろう。
絵本におけることばとイメージの関係は、画家はいかにイメージを視覚化するのか、読み手にとってことばとイメージはどのように結びつけられているのかなど、興味深い問題を投げかけてくれる。とりわけ、ペローやグリム、アンデルセン童話は、1つの原作をもとに、300年以上にわたって世界中で翻訳され、ことばの解釈にはじまり多様な視覚表現が行われてきた。『赤ずきん』『シンデレラ』『おやゆびひめ』などが長い間読みつがれてきた背景には、物語への愛着とともに、豊かなイメージのひろがりと表現があったからである。
しかしこのような童話にも、ことばとイメージが相互に響きあう関係が最初からあったわけではない。書物の中で、テキストと挿絵が分離し役割を分担してきた長い歴史がまずあり、絵として徐々に存在感を強め、絵と絵のつながりや時間と空間の表現が意識されるようになり、絵本という新しい表現の形式を生み出したのである。

書物の中の挿絵

書物と挿絵の関係は、中世ヨーロッパの写本に彩飾されたものや、印刷されたものでは15世紀までさかのぼるが、書物と挿絵に対する関心が西欧で本格的に高まるのは、19世紀に入ってからである。19世紀も半ばを過ぎると、グリム童話やアンデルセン童話にも挿絵は欠かせないものになっていくが、20世紀までの数10年間は、印刷技術の発展と合わせて、挿絵の表現性が飛躍的に向上していく時期でもある。
より精巧な挿絵を再現するために、銅版彫刻、木口木版、石版など新しい印刷技術が開発され、カットとして挿入された挿絵は、絵が緻密になるにしたがって丹念に背景が描かれるようになり、1頁全体を占めるようになっていった。
ギュスターブ・ドレ(Gustave Dore)は、19世紀後半に活躍した代表的な挿絵画家の一人で、精巧な木口木版による挿絵で人気があった。ドレの『赤ずきん』のための挿絵は、木口木版によって印刷されたが、陰影や細部の描写などが克明に彫刻され、初期の素朴な木版刷りとは比較にならないほど緻密な表現性を持っていた。それでも初期の挿絵は、テキスト主体の物語がまずあり、特徴的な一場面を抜き出しイメージを外面化したものがほとんどで、読者のイメージを補うものとしてあった。挿絵は、文学と別に存在するものであり、あくまでもことばによる物語を補完する表現形態としてその道を歩んできた。
初期の挿絵本は、1つの物語に1つの挿絵というのが一般的だったが、表現が豊かになるにしたがって徐々に挿入するページが増えていった。書物は、挿絵で話題になることもめずらしくなかった。
童話を含めフェアリーテール(妖精物語)は、挿絵画家たちの想像力を刺激する格好の題材だった。フェアリーテールは、口承されてきたおとぎ話の一つで、現実に存在しないもの、現実にあり得ないことなどを題材にする物語である。妖精や魔物、お姫さまなどが登場するが、もともとは教訓的なものや教育的な意味を含んでいた。フェアリーテールは、ことばの世界から生まれたものだが、視覚的に見えるものとして描かれたときから挿絵の果たす役割は重要なものになっていった。王子がカエルになる、おやゆびのように小さな少女、人間のように振る舞う動物、上半身が人間で下半身が魚の人魚、ことばから導かれるイメージは、視覚的な形を持つことで、より身近に人々の心の中に入っていった。
しかし、フェアリーテールはもともと想像力に満ちたものであり、読み手はテキストから十分イメージをふくらませていくことができる。そのために、挿絵は読み手の自由な想像力を阻害するとの見かたも一方にはあった。書物にとって挿絵があくまでもわき役であるとの認識は根強く残っていた。これは、ことばとイメージの問題を考える上でも重要な問題になるが、イソップ物語やグリム童話、アンデルセン童話などに、さまざまな挿絵がつけられていったことで、多くの読者を獲得していったことも事実である。そして、描く画家の違いによって、イメージが多様であることも明らかになっていった。
一つの場面を説明的に描いていた挿絵は、人物を描く場合でも、画家によって姿や形を描写するだけでなく、性格が与えられたり、象徴的に描かれたりするようになっていった。擬人化された動物たちも、描く画家によって異なった個性が与えられた。
書物の挿絵は、著名な挿絵画家たちによって一段と魅力を増していった。挿絵の入った豪華な書物は、クリスマスなどの贈り物として用いられ、ギフトブックと呼ばれたが、19世紀末挿絵ブームに火をつけたのはこのギフトブックである。そして1920年代、30年代には、アーサー・ラッカム(Arthur Rackham)やエドモンド・デュラック(Edmund Dulac)、カイ・ニールセン(Kay Nielsen)などの人気挿絵画家が注目を浴びた。いずれもグリムやアンデルセン童話の挿絵を手がけ、様式化された大胆な構成によって、際立った個性を発揮した。
これらの挿絵は、ようやく実用段階に入った凸版のカラー写真製版法=原色版が使われ、挿絵の世界ではじめて、原画がカラー印刷で忠実に再現された。写真製版による原画の再現は、水彩絵の具の柔らかなぼかしやペンによる自在な描線がそのまま表され、表情豊かな妖精たちが生き生きと表現された。挿絵の入った書物の成熟した形態は、物語のわき役だった挿絵がその主張を強め、イラストレーションとしての質を飛躍的に高めていった。

テキストのダイジェスト化と絵本

ラッカムやデュラック、ニールセンがどれほど個性的で独自の表現様式をつくり出しても、当時の文学と挿絵の関係は、それぞれの役割を明確に意識していたといえるだろう。演劇の影響を受けたニールセンの絵は、舞台の一場面を観る感覚に近く、その表現からさまざまな意味やイメージを読み取ることができるが、あくまでも独立した一枚の絵として完結しているのである。ニールセンの挿絵には、絵をつないで、絵物語として、絵本として発展させようとの意図は見られない。
一方、1870年ころには、グリム童話の中にも物語を省略したもの、いわゆるダイジェスト化したものが見られるようになり、それに比例して挿絵の数が徐々に増えていった。ダイジェスト化の背景には、子どもの読み物として物語を簡略にすることや絵によってより分かりやすくするなどの理由が考えられるが、翻訳の過程でその国の文化や地域性を考慮して省略したり、物語の一部を変えたりているものもある。時代が下るとその傾向は顕著で、その時代の価値観や子ども観がそのまま反映している。
アラン・ランダスは、原作者と翻案者の関係で考え方の問題が顕著に表れるのは、「暴力的」など不快だと思われるものの扱い方も一つの例だとして述べているが、オオカミが赤ずきんを食べてしまうところも典型的な場面といえるだろう。(注1)これは、まずペローやグリムの『赤ずきん』の原作に対する解釈からくるテキストの違いに見られ、挿絵では、そこに書かれた意味の視覚化と画家自身によるイメージの飛躍や誇張としても表現される。しかし、極端に簡略化された絵本には、オオカミが赤ずきんを食べたという行為、ストーリーだけが残り、そこに含まれる意味も文化的な背景も消されてしまっているものも少なくない。
いずれにしても童話は、物語の簡略化とともに二つの流れを生み出した。一つは、あくまでも挿絵は文学を補い、かつ独立した表現形態という流れ。今一つは、絵が重要な役割を担い、絵が物語を引っぱる、いわゆる絵本としての独自の表現形式の流れである。ダイジェスト化は、童話を多様な視覚表現の世界にひろげていった。
絵本化するということは、物語を構成するテキストを省略することである。省略されたところを絵によって表現するか、もしくは、ことばで表現するより絵で表現した方が分かりやすいものや具体的に示せるものを絵にすることが意識されるようになっていった。その結果、描く対象や表現方法が微妙に変化していくのである。それまでの独立した絵画的表現から、画面のつながりや一冊全体の構成を意識した表現が見られるようになる。
物語は、どのようなものでも時間の流れを伴った通時態である。ある場面を抜き出して絵にするすることは、時間の流れを止めたところで描かなければならない。挿絵がそのような共時態の表現だとすれば、絵本は、通時態と共時態を統合していく表現の形態である。しかし、絵物語の成立というのは、時間の流れを絵によってことばと置き換えるということではない。ことばと絵、両方で物語、時間の流れをつくり出す手法と考えるべきだろう。その点から見れば、童話の挿絵として描かれた絵と、絵本として描かれた絵は区別されるべきものであり、挿絵本と絵本も同様だろう。小説が映画化されるとき、いったん脚本に置き換えられ映像化されるが、童話が絵本化される場合も、脚本こそないがことばとイメージが新たに解釈されて表現されたものである。グリムやアンデルセンの絵本は、新しい解釈に基づく別のメディアと考えるべきだろう。

ことばとイメージ

「むかし昔、あるところにちいさな愛くるしい女の子がありました。この子ときたら、ほんのちょっと見ただけのものにもかわいがられたくらいですが、この子を、だれよりも一番かわいがっていたのは、なんといっても、この子のお祖母さんで、これはまた、この子には何をやったらいいのかとこまるほどのかわいがりかたでした。あるときおばあさんは、この子に赤びろうどの頭巾をやりました。すると、これがこの子にたいへんよく似あって、それからはもうほかのものはかぶらなくなったので、みんながこの子のことを、赤ずきん、赤ずきん、とばかりいうようになりました。」(注2)
これは、グリム童話『赤ずきん』の最初の文章である。これほど細かく描写されていても、このことばだけでは、おおよその情景を想像できても、赤ずきんと呼ばれる女の子がどのようにかわいいのか、赤い頭巾はどのような形をしているのか、具体的な視覚像をだれもが共通に頭に描くことはできない。しかし、読者はここから想像力を刺激され、イメージをふくらませることができる。
それでは文字のない状態で、絵本の絵だけをみるとどうだろうか。「赤ずきん」は、だれもが知っている物語であるために、それが主人公の赤ずきんであり、話しがどのように展開するかだいたい予測することができる。しかし、「赤ずきん」の物語を知らなければ、そこでどのような会話が行われているのかまったくわからない。絵本におけることばとイメージの関係は、このように相互補完性を持っている。
ことばは、概念を共有できる優れた記号であるが、形象に対してはきわめて曖昧なものでもある。ことばから受けるイメージは一つの視覚像を結ぶわけではない。また単純に外界を写し取ったものではないし、現実の姿と完全に対応しているわけではない。もともとは原形があるにしてもイメージとはそのようなものである。イメージとして頭の中に描かれる像は、多義性を持っている、個々人の頭の中で整理されたり、増幅したりしてある形として想起される。
ことばは、単語一つだけ採り上げれば曖昧で漠然としていても、前後や物語の全体の構成の中で、ことばが重なり合いイメージの輪郭を想起させる。それに対して絵は、赤ずきんの容姿のすべてを表し提示する。しかし絵は、感情や観念、思想など明白な形を持っていないものは表せない。やさしい笑顔のイメージを提示できても、やさしさや心の内側まで表現することはできない。そのために、絵が想像力を阻害しイメージを限定してしまうという見方も出てくるが、そもそも、ことばと絵は、果たす機能、役割がまったく異なるものである。ことばによる赤ずきんの描写は、ペローやグリムの創造行為である。同様に「赤ずきん」から画家がイメージを描き出す行為も創造行為であり、画家の世界観、ものの見方がおのずと反映する。
絵はことばだけではあいまいなものを具体的な形に、ことばは、描かれているものの意味と時間の経過を示してくれる。ことばと絵、それぞれの限界を相互に補い合うことを前提に成り立っているのが絵本なのである。

イメージと視覚表現の多様性

「赤ずきん」は原作があり、原形は同じなのに同じテキストからさまざまな視覚的表現が可能なのはなぜだろうか。ことばから描くイメージは、曖昧で写真のような具体的な像ではないし、形成されるイメージは人によっても異なる。その人の生活環境や受けた教育、知識など条件が同じではないからだ。テキストから想像するイメージは、かつて見たもの、経験したことも影響している。画家は、物語を解釈しイメージを紡ぎ出し、視覚的に見える形に表現するのであるが、画家は、時にはテキストにないものも描かなければならないし、ことば以上のことを表現することもある。
例えば、赤ずきんが住んでいる家やお母さんの身なりについて、原作はなにも語っていない。しかし、絵本には赤ずきんの家が描かれていることはめずらしいことではないし、母親が登場することも多い。バーナディット・ワッツとエリック・バトゥーの絵を見ると、それぞれ村の教会が描かれ、ヨーロッパ特有の集合住宅を赤ずきんが暮らす家として描いている。これは、ワッツやバトゥーにとってこのような住宅は身近な生活環境であり、教会を中心に取り巻くように住宅があるのは、ヨーロッパでは見慣れた風景である。
ところが、このような風景は日本ではまったくなじみのないものである。意識的にヨーロッパ特有の風景として描かない限り、自然に描かれることはない。飯野和好の『赤ずきん』の家は、藁葺きで日本的でもあるが、暖炉からつながる煙突があり、ヨーロッパの田舎の家を想像させる。これは、飯野の中に形作られている「ヨーロッパの田舎の家」であり、赤ずきんが住むにふさわしい家としてイメージし視覚化したものにほかならない。
湯村タラの『あかずきん』では、どうだろう。青い屋根、赤い壁の村はずれにある一軒家、お母さんは金髪で、赤ずきんも金髪で青い目である。読み進めていくとわかるが、この絵本は、1950年代か60年代のアメリカを舞台にしたパロディで、意図的にアメリカにあるような田舎の小さな一軒家として描かれている。
こうしてみると、絵はことばに対して自由に見えるが、画家は、ことばを絶えず意識しイメージをつなぎ合わせている。イメージは、単純に「家」という一つのことばと直結しているわけではなく、「家」にかかわる多様な意味の広がりを含んでいる。言い換えれば、その人にとっては、私の家であり、田舎の家、かつて住んだ家、小さな家、日本の家、ヨーロッパの家と無限に広がっていく。さらにそれぞれの家には、生活や習慣、その人固有の物語も含まれている。「家」のイメージの背景には、限りなくつながったことばの海が広がっている。「赤ずきんの家」は、ことばのつながりである物語の解釈から出発し、画家の中にある「家」に関わることばが相互に結びつけられた表象なのである。

イメージのひろがり

次にことばは飛躍が許されないのに、視覚的イメージの飛躍が許されるのはなぜだろうか。ことばは秩序だった記号体系であるために、飛躍したり断片化したりしてしまうと意味が通じなくなってしまう。
「あるときおばあさんは、この子に赤びろうどの頭巾をやりました。すると、これがこの子にたいへんよく似あって、それからはもうほかのものはかぶらなくなったので、みんながこの子のことを、赤ずきん、赤ずきん、とばかりいうようになりました。」
これを「赤ずきん、赤ずきん、みんながこの子のことを、あるときおばあさんは、それからはもうほかのものはかぶらなくなったので、これがこの子にたいへんよく似あって、すると、この子に赤びろうどの頭巾をやりました。とばかりいうようになりました。」とすると、脈絡がまったくなくなってしまう。
ことばは、記号や概念を示し、具体的なものを示すわけではないから、ことばの意味を飛躍させることはできないし、断片化してしまうと意味が通じなくなる。ことばは、関係づけられて一つの意味を表わしている。また、赤ずきんを青ずきんや黒ずきんにしたり、びろうどを木綿や毛糸にしたりすると、まったく別のものになってしまう。しかし視覚的イメージは、どのようにデフォルメされてもその「もの」から離れることはない。赤ずきんが帽子に近いものから、マントのようなものまでさまざまな形で描かれても、「赤ずきん」から離れてしまうことはないし、視覚化される表現は無数にあるといっていい。ましてや「女の子」になるとさらに広がるし、オオカミの絵は、どのようにデフォルメされても原形が残ってさえいれば、オオカミそのものから離れることはないし、擬人化されたオオカミは、数限りなく視覚化することが可能である。
もともとイメージは明確な形を持たないが、画家の思考は、さまざまな形ですき間を埋めていく、さらにまわりのものと関係づけられていくことによって、イメージに意味が与えられていく。そして、画家は、イメージを具体的に目に見えるようにするする手法、技術を知っているのである。読み手もまた、描かれていないところ、見えないところをイメージで補う。
赤ずきんが花を摘む場面を見てみると、ほとんどの場合描かれている花は何の花でもない。花のイメージが描かれているに過ぎない。テキストも「花」「かわいい花」と何の花か書いていない。マーガレットやコスモスなど具体的な花を描く必要がここではないからだ。
絵本を読むとは、テキストと画家のイメージを読むことであると同時に、読み手がつくりだすイメージを重ねることでもある。読み手は、画家が組み立てたイメージを受動的に受け止めているわけではない。読み手が主体的にかかわることで全体にまとめていく。ことばと描かれた絵を手がかりに読み手はさらにイメージをつくりだす。絵本は、画家がつくりだすイメージと読者がつくりだすイメージが共鳴して成り立っているのである。
現代の童話をもとにした絵本には、極端にテキストが省略されたものがある。「赤ずきん」のようにだれもが知っている物語は、すでにコード化されたイメージがあるために、ことばを省略することが可能になる。ステレオタイプ化された場面やしぐさのイメージのストックが読み手の中に蓄積されているからである。
しかし、原作の解釈に基づくテキストの省略とストーリーの単純なダイジェスト化による省略は意味が違う。画家には、原作を読み込み解釈する力量が求められ、さらに視覚的に表現する力と技術が問われる。読み手は、イメージを直感的に知覚するだけではなく、背後に含まれる文化的なメッセージも楽しむからである。単純でわかりやすいだけの絵物語は、ストーリーの表面をなぞるだけであり、結果的に豊かなことばの世界も失ってしまう。抽象化することと単純化することも同じではない。抽象化の過程には絶えずことばとの関係が含まれている。簡略化によってことばとイメージが分離してしまったものは、もはや童話の絵本化とは呼べないのではないか。絵本はそれほどにことばとイメージの結びつきが強い。ことばとイメージが相互に働きかけることによって、時間を動かし物語を構成する。この多義的な思考のプロセスが絵本の形式を決定づけているように思う。

(本学芸術文化学科教授・視覚表現論)

注1)『「赤ずきん」の秘密』アラン・ダンダス著 池上嘉彦他訳 紀伊国屋書店 1996年
注2)『完訳グリム童話集1』金田鬼一訳 岩波書店 2003年による
 
「絵本におけることばとイメージ」『絵本におけることばとイメージ』展覧会図録
武蔵野美術大学美術資料図書館 2005年12月