今井良朗
多彩な実験の場
ポスターは印刷されることが前提になっているために、原稿もさまざまである。写真やイラストレーションなど一般的に考えられるものだけでなく、黒一色で描かれ、印刷工程で色彩が入って完成するもの、パソコンで制作されたものが直接印刷物になるものまで多岐にわたっている。いずれも製版の工程を経て印刷物として表現されるからである。
最近ではパソコンの普及によって、原稿をコンピュータ・ソフトで作成することがあたりまえになっている。コンピュータ・ドローイングによるイラストレーションから、写真やイラストレーションをスキャナーで取り込み、コンピュータで加工するものまで幅もひろい。デジタルの特性をうまく引き出し、独特の質感や空間と立体感など表現にも新たな特性が生まれている。しかし、何よりも特徴的なのは構想から印刷に至るプロセスを個人がモニター上でコントロールできることだろう。その結果、写真などの原稿を写真版で忠実に再現し印刷するという一面的な見方はもはやない。むしろ印刷物に至るプロセスには、多様な表現の探究と可能性があることをあらためて確認する契機になっている。
デザインの現場にパソコンが普及する以前、1960年代から80年代にかけて、ポスターの表現が確立していく過程では、版形式と印刷技術の知識は不可欠だった。製版と印刷技術から生じる特性と最終的な表現が密接に結びついていたからである。実際、版下と呼ばれる原稿の作り方と版の形式は表現を規定し、最終の仕上がりに制約を与える。同じ写真原稿を基にしても、シルクスクリーンとオフセット印刷では表れ方が異なる。版の物理的特性が表現そのものだからである。デザイナーにとっても写真製版の精度が高まる以前と以後では表現に対する意識も明らかに違う。社会的な状況やその時代の技術は表現と密接に繋がっているが、1960年以降の約30年は、技術の発展過程と並行して日本のポスター・デザインが多彩な実験の場として機能していたことが興味深い。
1960年以降、日本のグラフィック・デザインは活況だった。生活水準も向上し、消費者意識も大きく変容し成長していった。それに伴って宣伝活動は一層重視され、広告量も飛躍的に伸びていった。経済成長、広告需要の高まりに合わせて、コマーシャル・ポスターの制作量も膨大なものになっていった。表現も写真が主流になり、集団的な制作システム、アート・ディレクション・システムが広告界に定着した。
一方で日本宣伝美術会(日宣美)は、1960年を境に下降線をたどりはじめ70年に解散するが、日宣美の最後の10年、60年世界デザイン会議、64年東京オリンピック、深刻な大気汚染や企業による公害の社会問題化など、社会情勢の変化もありグラフィックの潮流が変わっていく。日宣美の若い応募者は、受賞がもたらすスター作家としての可能性を求める者、作家性を否定してより社会に眼を向けていこうとする者など、目指す方向がすでに一様ではなかった。同様に日宣美会員のなかでも、戦後日本のグラフィック・デザインを牽引してきた第一世代との考え方の違いも顕在化していた。*1
本展で取りあげられる永井一正、田中一光、福田繁雄、石岡瑛子は、1930年前後生まれの戦後派第二世代といわれる代表的なデザイナーである。いずれも日宣美の会員として活動する一方で、60年代以降、柔軟な思考と表現に対する貪欲な実験的精神によって、それぞれ固有の表現手法をさらに発展させ、ポスターをはじめグラフィック表現に新しい世界を切り開こうとしていた。
ここでは4人のデザイナーを通して、ポスター表現の特徴を二つの面から見ていきたい。一つは、ポスターに写真が多用されるようになったこと、いま一つは写真製版のプロセスが注目され、〈クリエイティブ製版〉に代表される実験的な印刷表現の試みである。いずれも写真製版技術の飛躍的な向上が背景にある。写真が主役になるポスターも、B全判に拡大できる精度の高い製版技術によって支えられていたからである。
写真とポスター
60年代後半から急速に増えはじめた写真によるポスターだが、コマーシャル・ポスターの世界は、細谷巌、中村誠、石岡瑛子ら新しいタイプのアート・ディレクターの活躍によって、成熟した時代を迎える。石岡は、1966年、前田美波里をモデルに起用した資生堂のキャンペーン・ポスター《太陽に愛されよう 資生堂ビューティケイク》[図1]で、広告化される女性のイメージを誰もが共有しうるところに設定し注目された。その後、PARCOの一連のポスターは、企業イメージを引きだすというよりも、強烈な個性によって、結果として企業イメージを創りだしていく手法が特徴だった。ファッションを商品化せず、女性の生き方そのものを前面に出し、現代を強く生きる女性へのメッセージとして表現したのである。
これらのポスターの特徴は、石岡を筆頭に有能な写真家やコピーライターとの共同で制作されたところにある。このような方法は、ディレクター・システムとしてすでに定着していたが、コマーシャル・ポスターの世界では、匿名性があたりまえだったなかで、ディレクターが有能な個性を引きだし、それぞれの個性、顔を前面に出しながら共同化するところに意味があった。このような制作システムは、70年代以降の一つの潮流になっていき、写真家やコピーライターの個性が注目されるようになった。
ポスターが社会性の強いメディアであり、合目的性を持って制作されることが前提であることは当然としても、その形式がグラフィック・アートとしての側面を持つ以上、作家性と匿名性の問題は常につきまとう。ディレクション・システムの徹底した導入によって、デザイン制作の集団的、機構的システムが確立していく一方で、デザイナーは個人の表現を意識しながら、いかにクライアントの要求する機能や社会的なコミュニケーションの形をとっていくか腐心しなければならなかった。また、広告の繁栄がそのままグラフィック・デザインの質的向上に繋がらないのではないか、という危機感も働いていた。自ずとデザイナーは、個を基盤にアート性の強い表現を追究していく方向と、組織のなかで活動していこうとするデザイナーに区分されていった。また、商業性の強いポスターと文化活動のためのポスターという分野の違いによって、デザイナーの拠ってたつ基盤を異にする動きも明らかになっていった。
田中一光は、文化活動により重心を置いたデザイナーの一人だが、写真を前面に出したポスターは少なく、今回展示されているのも《JAPAN STYLE》[図2] 1点だけである。写真は十文字美信、衣装は三宅一生が担当しているが、写真の力を引き出しつつも、緻密に構成された空間は田中の世界であり、コマーシャル・ポスターとの違いを際立たせている。だが、そこでは個に埋没するのではなく、社会や文化との関わりを意識したグラフィック・アートとしてのポスターの存在性を主張しているようにもみえる。
製版のプロセス
ポスターは写真を積極的に取り入れ、新たな環境を獲得していくことになるが、ここでの写真製版技術は基本的に〈写真〉の忠実な再現を前提にしている。カラー写真製版は、黄、赤、藍の分解された3原色に黒を加えた4色の小さな点の集合によって再現される。さらに再現性を高めるために淡色や特色を加える6色〜8色刷りも珍しいことではなく、たとえば肌色の再現には一層効果を発揮する。一方、製版の過程で写真の肌色を補正し健康的な小麦色に近づけることも容易で、この製版の多様なプロセスに着目し、あらためてポスターにグラフィック表現の実験的な試みが行われたのも70年代以降の特徴である。
手元に凸版印刷発行の『製版マニュアル』(1971年)がある。このようなマニュアルは、当時グラフィック・デザイナーにとって欠かせないものだった。カラーチャートやスクリーン線数、適性原稿と再現性などの知識なしには、印刷原稿の制作が成り立たなかったからである。もっとも、技術との関係、とりわけ製版技術を受注する印刷会社が印刷表現の基礎技術を集約し、編集したものはこの『製版マニュアル』がはじめての試みだった。巻頭でも述べられているが、デザイナーと制作・生産・営業が共通の理解や基盤に立つことの必要性を認識し、「プリンティング・ディレクター」の役割を打ち出している。*2
マニュアルには、特殊スクリーンによる実験やソラリゼーション、合成写真など製版工程で可能なグラフィック表現が多岐にわたって紹介され、中村誠と製版者との共同による実際に使用された資生堂ポスターなど、デザイナー7人の実験作品も掲載している。印刷会社が仕掛けたことではあるが、その後〈クリエイティブ製版〉という言葉が使われ、網点の使い分けや刷色の変換、特殊効果など様々な表現が生まれ、あらためてグラフィック表現が、製版と印刷に依拠した表現であることを意識させたことは確かである。
永井一正の《リリーカラー》[図3]《現代日本のポスター》[図4]《JIDA創立30周年記念》[図5]などがその表れだろう。永井は製版による効果を積極的に取り入れ、グラフィックの原点を意識しながら新たな可能性に挑んでいる。
福田繁雄の《JAPON-JACONDE》[図6]は、あえて特殊なスクリーンを使用することによって、だれもが知っている「モナリザ」を異なった視点から問いかける。福田は1989年に同じ「モナリザ」を題材に《JAPON-JACONDE 1989》[図7]を発表する。こちらは網点の代わりに使用済み切手2,552枚を用いて「モナリザ」を浮かび上がらせるが、その作業は手作業による極めてアナログ的な手法に基づいている。1989年はパソコンがデザインの道具として定着しはじめたころである。
〈クリエイティブ製版〉による表現は、パソコンのアプリケーション・ソフト〈Photoshop〉などのフィルターや特殊効果によって簡単に再現できるようになった。福田はあえて手間のかかる作業を選んでいる。パソコンによる作業は効率性を高めたが、グラフィック表現が印刷に至るプロセスのなかでの思考が重要であったことを思えば、表層的なクリエイティブへの警鐘ともいえる暗黙のメッセージとして受けとめることができる。1960年代から80年代は、個と社会の狭間でグラフィック・デザインとは、という問いかけのなかで、実験的な表現が育まれた時代だった。
「グラフィック=印刷表現の実験」『ムサビのデザインV 1960-80年代、日本のグラフィックデザイン』展覧会図録
武蔵野美術大学美術館・図書館 2015年9月