39-ことばとイラストレーション

小説を読むとき、イラストレーションはときにイメージを膨らませる妨げになる、と聞くことがある。具体的な視覚像によってイメージが限定されてしまうと考えるからだろう。テキストから想い浮かべるイメージは、明確な形を持たないものであっても、人それぞれ曖昧ながらも輪郭を想い浮かべている。一方で、イラストレーションによって小説の世界が広がるものもある。

 ことばから受けるイメージは、単純に外界を写し取ったものではないし、現実の姿と完全に対応しているわけではない。原形があるにしても、イメージとは多義的なものだ。頭の中にあるものを整理したり、増幅したりしてある形として想い浮かべている。日常の会話ですら、お互いがことばを繋ぎながら、明確な形を持たないイメージのキャッチボールを行っている。猫にまつわる会話で盛り上がっているときでも、それぞれが異なった猫の像を描いている。お互いに具体的な像を確認することよりも、その場で猫のイメージを共有していることが大切だからだ。〈ネコ〉ということばは、単語一つだけ採り上げれば、概念を表す記号でしかないが、前後や会話全体の構成の中で、ことばを繋ぎ、重ねながらイメージの全体像を広げていく。時間の経過やその場の雰囲気も作用する。それに対して〈ネコ〉の絵は、種類や容姿、しぐさなど、見えている状態など特徴を表すことができる。写真や映像では一層特定される。

 そもそも、ことばと絵は、果たす機能や特性がまったく異なるものだ。絵は、ことばだけでは曖昧なものを見える形に、ことばは、伝えたいものの意味と時間の経過などを示してくれる。会ったことのない人に、容姿を伝えることがどれほど難しいか、だれもが経験する。しかし、写真をスマートフォンで送れば、とりあえず解決してくれる。ただし、その人が思い悩んでいること、どのような性格なのかを写真や絵だけで伝えるのは難しい。

 ことばと絵、それぞれに隣接するイメージについて見ていくと、絵本は、それぞれの限界を相互に補い合うことを前提に構成されているものが多い。絵本が言い伝えや昔話など、口承文芸を起源に伝承文学として受け継がれていることも無縁ではないだろう。ただ、語りによる物語の特性がどこまで残っているか、となれば派生の仕方は一様ではないようだ。

 語りによる説話や昔話は、男性の声、女性の声、声の大小、高低によっても異なる。さらに、口承文芸には、語り手の解釈や感情、音の抑揚が含まれ、その場の雰囲気も重要な役割を果たしている。語られることばには、動的で身体機能に関わる多くのことを含んでいるが、視覚化され構造化されたテキストは、静的で話しことばと感情の表し方は同じではない。

それでも、イラストレーションが木版で印刷されていたころは、多数に向けた語りが物語を繋ぎ、場を支配する要素は残っていた。その後、活版印刷の普及と書物の広がりは、個人による読書と黙読を定着させ、テキストによる表現も高度になっていった。イラストレーションもまた、抽象化が進んだ。

 「あかずきん」など伝承文学は、口承による語りを引き継いでいても、一貫性のある物語として、新たにテキストで表現したものであり、それは作者が想い描いたイメージの記号操作=言語化に違いない。そこに挿入されるイラストレーションも、作者がことばから想い描いたイメージの視覚言語化である。どちらも、あらためて知識や情報、記憶を繋ぎ、結び直す複雑なプロセスによって表現される。そのための技術や手法、社会環境は時代とともに変化してきたが、人間の感覚機能を基盤にしてきたことは変わっていない。

 文学の分野から見ると、テキストとイラストレーションは別のものとして扱われるが、視覚デザインの分野からは、文字で組まれ印刷された文学も、イラストレーションや写真同様、形式としては視覚表現である。文字の形態から擬音など音を視覚的に表すマンガもそうだ。

 イメージによるコミュニケーションは、人類の原初的な行為である。日常の生活を振り返っても、言語的な表現や視覚的な表現、音響空間などが幾重にも重なり合う場で生きている。私たちが見ているもの、感じ取っていることは、絵とことばを別々に読み聴いているのではなく、ことばと絵という区分に囚われることなく、全体から立ち現れるまとまりとして捉えている。そのことをあらためて認識したい。